本当に情報に氾濫した中で生きているのか
こんにちは、炭酸水ケンタです。今日も家にいます。暇ですね。
なんて悲しい春休みなのでしょうか。明日こそは外にでて思いっきり遊びたいですね。
子供のように。あの頃が懐かしい。
昔は、家に閉じこもるのが嫌いで遊ぶ約束をしなくとも、公園に行けば誰かいる精神でいっていたのに
今となってはそれはあり得ないです。でも、出かけても、いつも一緒の所に行きいつも一緒の事をして帰る、
これも退屈極まりないので、ただ疲れるだけになることが多いです。
だれか遊び方を教えてくれる人はいないのでしょうか。という独り言です
そんな独り言はほっておいて、今日のテーマに入っていきたいと思います。
今回のテーマは 情報 についてです
先日情報についてディスカッションをする機会がありまして、いろんな意見が出てきました。
このディスカッションの内容というのは、主にあなたの見たその情報が本当に信頼できるのか
ということに関するディスカッションです。
その中で、出てきた意見としては、結局自分の中で信頼できる情報というのは、実行者した人から聞いたことに限られるのではないかといった意見です。
実行者というのも、多種多様にいると思います。例えば、友達が実際にアメリカに行き体験したことを伝えてくれたことが信用できる。
また、旅行についてのブログなどは自分が体験したことをもとに書いているので信用ができる。
このような意見です。
他にも、ユーチューバーもその部類に入るのではないかなと思います。
そんなことを踏まえて今回はブログを書いていきたいと思います。
テーマにある情報というタイトルでは範囲が広すぎるので今回は
若者は本当に情報に氾濫した中で生きているのかについてを書いていきたいと思います。
若者は本当に情報が氾濫した中で生きているのか
昔は紙媒体の物が最も信頼できる情報源となっていたものが、今日ほとんどの若者がそれを忘れ去り
機械の中に映し出される情報でほとんどすべてを調べるようになりました。
その理由としては、機械の媒体が生み出されことによる集中力の低下と共に、いかに短時間でそれを済ませることができるかといった時間の短縮化が
できるかだと思います。短縮化というとなんだか聞こえがよく感じられるとおもいますが、裏を返せば考える時間が減ったということです。
そして、インターネットを使う人が多くなったのでユーザーの人たちが興味のあることについての情報を読み取りそこから
よく調べるものを機械がデータをもとに計算し表示してくれる。
なので人によって検索のヒットの仕方が変わってくる。
ということはどういうことかというと、情報がその人の中で氾濫しているのではなく逆に狭くなっているのではないかということが言えます。
好きなものの情報だけが、最初の方に表示されそれのみを見る。世の中としては情報は氾濫しているように見えますが、一人一人からしてみると
全く情報にあふれていないような感じがします。
またそこから導かれた情報というものは非常に浅いところの情報なので、それをすべて鵜呑みにしてしまいがちになっています。
その傾向が顕著に表れているのが今の若者だと思います。
全員が全員そうだとは言いません。その中でも浅いところの情報だけではなくもっと深くまで掘り下げて一つの情報をしっかりと理解するという
ことを行っている人は少なからずいるはずです。
わかりやすい例を使えば、勉強です。
何でもそうなのですが、浅いところを勉強し続けてある程度外枠やその中身についてわかってくるとは思います。
けれど、それだけでは全てが見えないはずです。深いところまで勉強し続けたからこそ見えるものがあるものがあると思います。
それと一緒で情報も浅いところだけで終わらずに、もっと深くまで掘り下げて掘り下げてみていくと全く違う角度で見えてくるのではないかと思います。
そうすると、最初に戻りますが、情報の真偽というのが明確になっていくのではないかと思います。
今日はこれにておしまいにしておきます。読んでくださってありがとうございました。
興味
こんにちは、炭酸水ケンタです。暖かくなってきましたね。これ毎日のように言っている気がしますが、なんせ書くことがないので
お許しを。最近バイトで外に出ることが自分の中でおおくなってきました。
前まではバイトが始まるまではどっかに行って遊んでからバイトに行くスタイルだったんですけど、一日が短く感じて、時間に余裕を持てないので
バイトがある日はバイトに行くだけと決めております。こんなんで大学生活いいのかなと思いつつブログを書いてるのですが、
こういう休みをありだろうと勝手に自己肯定しています。
今回の雑談はこれくらいにしておいて今回のテーマに入っていきたいと思います。
今回のテーマは 興味 についてです
興味と聞くと自分の今好きでやっていることなどが浮かぶと思います。
少し惑わせてしまうような質問をします。
「あなたは自分の興味のあることにたいして本当に興味がありますか」
こんな質問意味わからんとか思う人もいるとかもしれませんが、一回自分のなかで聞いてほしいと思います。
これの意図として、その趣味について深く追求してるのかについては聞いていません。
その趣味は本当に自分から生まれてきたものなのかということです。
つまり、他人に影響されて、興味の自分としての興味をつぶされていないのかということです。
テレビなどのメディアの力でもそうなのですが、大衆というのが影響力がとても強いと思います。
僕もそうなのですが、人は影響力をすごく受けます。僕も昔興味があったものがあるのですが、時間がたつにつれて
それは自分の趣味・興味ではないということで、もう一度興味を探す旅に出ることにしました。
旅といってもどこへいくわけではありませんけどね。
結構上からの感じの文章になっていますがお許しください。
話に戻ると、すぐには本当の自分の興味なのかというのはわからないかもしれませんが、
いろんなことを経験しているうちに、これ自分の興味とは違うな、と気づくと思います。
その気づいたときに新たな趣味を持つこと自体も、影響されたものじゃないの?という質問がでてくると
思うのですが、確かにそれも一理あります。けれど、それはただ影響されただけではない気がします。
経験をするということは、それだけ考えることが多くなる幅が広がるということを意味します。
なのでそれは自分で考えた結果自分の興味に変わったという感じのものです。
ただ影響を受けただけではありません。
興味というのは結局その人自身を表すと思っています。どんな人なのかというのを分かるための一つのヒントになる気がします。
そして、興味があるというのは、その人はその分野について意識して考えることが多いということです。
勉強をその辺を意識すれば、もっとできるようになったはず、(悲しくなります)自分のせいですけど
なので、自分の考える時間をほかのものになれば、ほかのものに興味は移るのでは?と思ったりもします。
もし、自分には興味が全くないという方がいたら、自分が一番いつも考えていることは何についてなのかというのを
思い浮かべてもらって、それをもとに探してみてください。それは本当の趣味ではないかもしれません。
けれど、それが第一歩になるはずです。それでも見つからなければ、人と話してみることもいいきっかけになります。
実践あるのみです。
今日はこの辺で終わります。いつもだんだんと文章が意味わからなくなりますが、練習あるのみですね。
よんでくださってありがとうございます。
成長を感じる
こんにちは、炭酸水ケンタです。最近友達とあまり遊ぶ機会がなくて、また今度会ったりするのですが、多分その時
話せなくなっている気がする。なんでかって?何となくなのですが、いくら仲良くても、最初だけ若干気まずくなります。
そういう経験はありませんか。僕は幾度となくあります。っていうか、自分のペースになるまでずっと続くかな。
向こうのペースに合わなければ、それはまた長いこと続きます。まあこればかりは仕方ないですね。
もしこれを治せる方法知っている方是非とも教えてください。
雑談はこれくらいにしておいて、今日の本題に入ってきましょう。
今日のテーマは
成長することとはどういう意味 か です
ここでの成長するというのは、この前久しぶりに身長測ったら伸びてたとか体重増えてたとかそういうのではありません。
今回の成長の意味は、前よりも特定のものができるようになったとか、の成長です。
皆さんも一度は経験あるのではないでしょうか。
例えば、小さいころからスポーツをやっていて、そういえば前までこれができなかったのに、今意識してみると前より全然できるようになってるとかです
もしくは、ゲームとかをやっていてあの友達と対戦するといつも負けてた。けれど、それから何回も何回もやりこんでやりこんで
ある日突然勝てるようになったとかの経験ありませんか。
その時うれしいとともに、自分って前よりも成長したなと思ったりするはずです。
けれど、成長を感じるためにはものすごい時間が必要で、と共に努力もしなければ到底できるようにならないと思います。
時々難しすぎて、もうやめたいとおもったこともあるかもしれません。けれど、やめずに頑張った人だけができるようになる。
そういう文句よく聞きます。けれど、本当にそうなんでしょうか。ただただ我慢してやり続けているのでしょうか。
僕はそんなことないと思います。確かにずっと我慢してずっとやってやっとできるようになったという人もいるでしょう。
けれど、ヒントはほかにある気がします。
ではそれは何なのか?
成長を続けるために
成長を続けるためのヒントは、確認をいちいちすることです。
例えば、ここでは本を読むことにおいての成長について書きます。
なぜなら一番書きやすいからです。
本屋さんに行って、この本がよさそうだなと思って買ったとします。それは、たまたま経済についての入門書だったとしましょう。
そして、せっかく買ったので家に帰って早く読みたいですよね。なので、読みます。
最初はふむふむと調子よく読んでいたのですが、突然 あれっ、全然わからんくなってきた。でもせっかく買ってんから最後まで読もう。
で読んでいきます。最終的に全然わからへんかったで終わりました。
じゃあそこで諦めるのか?と言われて、じゃあもうちょっと頑張って読んでみよかなとなりますよね。
それをする前にほかの本を読んでみてください。一番いいのはそれと類似したものかもしれませんが、とりあえずほかに買った本とかなんでもいいです。
これをする意図は何なのかと言いますと、いったん寝かせることです。もしかしたら、気づいていない内に理解してるけれど、読んでいるときはそれができていないだけなのかもしれません。
けれど、寝かせているうちにだんだんと整理されて読めるようになっている。プラスほかの本も読んで、また新たな知識がついた状態でもう一回読んでみる。
そうするとまた違った角度でその本が読めるかもしれない、そしてそれが成長につながる。こんな感じでだんだんと成長していくのではないでしょうか。
成長とは確認の繰り返し、つまりインプットしたことをこまめに確認することで、短期期間で努力を確認することができる。またこれは、長く我慢して続けなくていいと思うので、
案外楽にできます。今回は本についての例を出しましたが、本だけにあてはまるものではないと思うので、ほかにも試してみてください。
今回はこれくらいで終わります。読んでくださってありがとうございます。
大学生になる何故運動しなくなるのか
こんにちは、炭酸水ケンタです。今日外に出たのですが、なかなかあったかくてもう花粉の季節だなと思いました。
鼻炎の僕にはつらい季節なので、病院に行かなくいとひどいことになります。
花粉は来るけど、外に出ないと体がだるくなるのでもうちょっと外出頑張ります。バイトも行きます。
雑談が若干少ないですが、ブログ始めてからだんだんと減っています。(頑張って増やそう)
なので早速今日のテーマに入っていきたいと思います。
今日のテーマは、なぜ大学生になると部活に入る人や運動をすることに対して抵抗感を持つようになるのかに
ついて書きたいとおもいます。今回も完全に僕の主観から判断して書きます。
大学生になるとなぜ運動しなくなるのか
僕自身ずっとではないですが、高校時代まで割と運動はしていました。部活を引退しても、昼休みにみんなでサッカーしたり
授業が終わってからサッカーしたりと運動していました。ちなみに僕はサッカー部ではありません。友達もサッカー部ではない人が多かったので
初心者同士でやっていました。ふざけながらとか、中高生らしくって感じですね。
そんなこんなで運動していることは多かったです。
けれど大学生になった瞬間、きっぱりと運動するという時間が減っていきました。そして今では、全然しなくなる。
部活を大学生になっても続けている人は大体毎日のように運動すると思うので、そんなこと感じないと思いますが、
部活をやっていないとなかなか運動するチャンスがないように感じます
何故なのか。
人によって理由はいろいろあると思いますが、僕の場合はこうです。
大学になってまで部活に入る意味ある?高校までずっと部活ばっかりしてきて、大学生になってまで部活に入る意味あるのかと
思ったりもしてました。僕の場合みんなより勉強の仕方とか進めるスピードとか断然に遅いので絶対無理だと思っていました。
結構陳腐な例だと思いますが、これが僕が部活をしたくない理由の一つです。
けれど、これ以外にもある気がします。普段はあんまり考えないのですが、大学に入ってまで部活に入るってなんだか大学生らしくないとも思っていました。
部活をしているもしくはしていた方ごめんなさい。
でも、こういう考え方している人もいると思います。少数かもしれないですけど。究極論としては、運動するのがめんどくさいになると思いますが。
後、中高生の時はお金があまりないので、やることと言ったらゲームとかもしくは外でスポーツをすることだと思うので、そういった理由で
中高生の内は運動することが多いのかなって思います。
一方大学生、みんな必ずと言っていいほどバイトしますよね、で月末になると給料が入ります。
言いたいことはお金を使った遊びの幅がとても広がるということです。
例えば、ショッピングに行ったり、旅行に行ったり本当に無限大です。いうならば、お金のせいで運動をしなくなったと言っても過言ではない気がします。
それじゃあ、お金を取り上げれば、するのかと言われればどうなんでしょうか。
もしかしたら、することの幅が狭くなるので、勉強をする、もしくは中高生とやることが変わらないといったことも起こるかもしれません。
今日、運動する場所がだいぶ少なくなってきたので、それも無理かもしれませんが。
もしあなたなら何をしますか?もしお金がなければ、どんなことをして毎日を過ごしますか?どんなことをして友達と遊びますか?
これで今日は終わりたいと思います。読んでくださってありがとうございます。
自分の感情について 言語化
こんにちは、炭酸水ケンタです。最近外に出ないせいかあまり雑談がなくなってきました。けれど今日も雑談から入ります。今日は面白いものを見つけました。ステンシルシートです。皆さんはもう知っているかもしれませんが、僕は全く知らなかったです。なんてすごいんだと、本当に驚きました。シール一枚であんなにいろんなものに装飾のようなものを施すことができ、かつおしゃれチックになる
(ファンシーと表現した方がいいのでしょうか)。よくよく思い出してみると、いろんなお店にああいう感じのアート?があったなと思いました。(あれってアートですか?)すごくシンプルですね。簡単に誰でもできる。
切る作業面倒だな、と思いつつ見ていたのですが、着る道具まであるなんて、素敵かつすぐにできるしかもおしゃれ。
今日は久しぶりに、、ていうか初めてなのかな自分のことについて書きます。
自分のことについて
春休みに入り、今までは学校遠いし嫌やなとか授業暇やなとか思いながら毎日を過ごすことが多かったです。
まあ大学生ならだれでも思うことなのかもしれません。
けれど、僕は大学が好きです。先生はとてもやさしいし(たまに話しにくい人もいるけど)、後友達と話すことができます。
僕にとって話す時間というのは、本当に大切な時間です。僕の場合なかなか自分のペースに乗らないと全然話せないことも多々あります。
今日調子がいいなと思ったら話が止まりません。若干ウザがられますけどね。まあこれが充実しているのでいいです。
けれど、休みに入った途端、それがピタッと終わりを告げます。土日の休みとかゴールデンウイークならまだしも、夏休みや春休みなどの長い休みに
入ったら本当に長い間なくなります。
中学や高校では、こういうことは全く平気でした。だって、学校の友達とか嫌でも部活とか塾とかで会います。地元にいてれば何かしら会います。
別にどこか遠くに行く人なんてまれだと思うので。お金かせいでないわけですし。
けれど、大学に入れば、それぞれが一人一人好きなことをします。例えば、バイトだったり、遊んだり、まあいろいろです。
ということは、自由です、就活などが始まれば、忙しくなるかもしれませんが。僕は就活に対しては断固反対派です。
なので、いつものメンバーが集まりいつもの場所で話す時間が減るわけです。
言いたいと事は、なんだか寂しい気持ちになりませんか。まだ卒業してないやんとか、いろいろ意見はあるかもしれませんが、
なんだかよくわからない言葉にできない感情になります。
卒業式だとか僕は平気なのですが、はっとして何も考えなくなった瞬間、頭にいろんなことがめぐります。
ドラマのなどの回想シーンより何個も一度に目の前に来ます。この瞬間はいったい何なんでしょうか。
どれだけ忙しくても、はっとした瞬間悲しい気持ちになる。あの時は嫌なことあったなとか、楽しかったなとかも全部合わせて(もちろん昨日のこととかも)
おもいだして、涙が落ちて来るような感情が起こってきます。
だいたいはまた違うことをしたりだとか、外に行って歩いている瞬間に消えますけどね。
頭って不思議ですよね、忙しいの時にはイライラしたり、ホッとすると悲しくなったり物足りない感情がする。
自分の脳内を覗き見たい感じがします。別に検査を受けたいとかじゃないですけど、、、怖いです。
なんか書いていきましたが、自分の事っていうか今の感情について言語化して書いてみました。
こんなことを書いてるとまたおもいだしてきそうです。
時間は大事ですね。感情が僕にはあってよかったなとも思ったりします。自分に言語があってよかったです。思ったことを表現できる幸せがあります。
もしなんかもやもやした気持ちがあればブログに表現してみるのはどうでしょうか。きっと新たな出会いがあるかもしれません。
また自分の本当の想いがわかるかもしれません。だまされたと思ってやってみてください。きっとわかるようになります。
表現するって大事です。
今日はこの辺で終わります。読んでくださってありがとうございます。
運命は本当に存在するのか
こんにちは
炭酸水ケンタです。昨日まで若干調子がよくなくて、どうやったら治るものなのか考えながらも外に出ていました。
最近早く寝て遅く起きるというのを実践したらいいんじゃないかなとか思ったりしています。
例えば、10時に寝て5時に起きるとか。そっからブログの更新をしたりその日その日の課題をしたりだとかをしだす。
結構いいかもです。
最近何となくストレスたまり気味なので、身体を動かしたいですね。あまりストレスというのがどういう感じなのかわかりませんが。
何となくたまってる感じがします。
雑談はこれくらいにしておいて今日のテーマに入っていきたいと思います。
今日のテーマは 運命 ついてです。
読者の皆様も一度は運命について考えたことがあるのではないでしょうか。
恋愛において述べるならば、自分にとっての運命の人はこの人だとか、この人なしでは生きていけないとか言った感じです。
その他にも、ここでこれを買えたのは運命だったとか。(ちょっと違う感じもしますがそれは置いといて)
けれど、よくよく考えてみると、これやっぱり違うんじゃないかとか、時間がたつにつれて何となく自分の思っていた感じと違うなとか思ったりします。
なので、運命というのは所詮感情論では、とか一時的なものなので信用ならないなとか思ったりするかもしれません。(これは自分だけなのかな)
また、たまに運命なんて信じないぞ。これは僕が生まれた時から決まっていた未来なんだとか、予定説的な考え方で運命論をそもそも否定してしまうという考え方。
いろんな考え方があると思いますが、日本における運命という概念はいったいどこから来たのでしょうか?
僕自身も全く知らないのですが、自分なりに仮説を立てたいと思います。
運命とは何処ぞから来たのか
運命はどこから来たのでしょうか。(日本においては)
僕自身感じるのは、日本における運命の考え方は、日本の伝統的な考え方からきているのかもしれないといった仮説です。
それのもとになってるのではないかと思った考え方は、一期一会です。
一期一会というのは、その一回一回の出会いを大切にしようという考え方です。もしかすると、この一回の出会いはもうないかもしれないといった前提の上にできた考え方ですね。
けれど、決してもうこの人とは会いたくないとか、絶対一回だけしか会えへんからなとかではありません。
個々人と気持ちとしてはあるかもしれませんが、言葉の意味はそんな意味ではないです。もっと素敵な言葉です。
もう日本中で有名な明石家さんまさんもそういった考えをしてりうのではないかと思っています。ちょっと意味は違ってきますが、さんまさんはプライベートであっても決してサインを
断らないというのを見たことがあります。それというのは、そのサインがほしい人の中には、病気で苦しんでいる子がいたりするかもしれないからです。自分のサインをもらうことによって
少しでも元気になってもらえるなら断らないということです。本当に素敵な方だと思います。
そして彼の考え方も僕の感じでは、一期一会的な感覚に少し近いところがあるのではないかなというところがあります。
話を戻すと、日本にとって運命の考え方のもとになっているのは、一期一会ではないかという僕の仮説ということです。
次に運命とは本当に存在するのかといったことを述べていきたいと思います。僕の考えを中心に書いていきたいと思います。
運命とは本当に存在するのか
僕がもし誰かに本当に運命というのが存在するのかと聞かれたら、僕はノーと答えます。上に書いた通り運命というのは
一時の感情論に過ぎないのではと思っているからです。
人の感情というのは本当に左右されやすいです。もしそれが操作された感情だったとしてもそれを運命と感じますか?
もしそれを後で知ってしまったら後でとんでもないショックを受けますよね。
僕が運命を信じないのは後でショックを受けたくないという心理的なものも確かにあります。僕自身そんなに精神的に強くない人なので。(最近涙腺が弱いです。関係ないですけど)
けれど、もし僕が運命の物や人にあったとしても、違う考え方をします。というか、まず疑いから入ります。(だからひねくれものとか言われる)
その時点でまず運命という考え方が崩れますけどね。
僕は運命というかそれ自身を小さな幸せの瞬間ととらえます。それ=運命じゃない?と思われるかもしれませんが
僕は頑固なので絶対違うと答えます。そもそも、自分の考え方的には一緒の領域に幸せと運命は存在しません。
どんどん話が見えなくなっていきますが、
幸せとは、自分の中では、たまるものと思っています。一方で運命とはその場限りたまらないのではと思っています。
運命とはそもそもたまった時点で運命じゃない気がしています。
その都度その都度、運命は新しくなっていきます。けれど、幸せは新しくなりません。なのでその辺がちがうのでは、と思ったりします。
運命についての考え方は本当に人によって考え方は様々で、答えはないじゃないかと思います。確かに、考え方が似ている人は十二分にいることは考えられますが、一緒ではないはずです。
最後に、もし運命という考え方について考えたことが無い方がいれば、自分の経験や思っていることがなんでも照らし合わせてみて、考えてみてください。
きっと自分の核の考え方が見えると思います。もしわからないならば、だれかと話し合ってみてください。きっと面白い考えが生まれるはずです。
もしもうすでに持っている方がいれば、教えてください。反対意見などお待ちしております。反対意見を言われれば傷つくのはみんな一緒だと思います。けれど、言われることによって自分の
考え方がより洗礼されていくので、いいチャンスと僕は考えています。
これにて今日は終わりにします。読んでくださってありがとうございます。
参考までに幸せとはの記事も貼っておきます。そして、考えるのに役に立つのではないかなと思った本と共に。
kentatansansui.hatenadiary.com
環境に依存してしまうことはいいことか
こんにちは、暇人の炭酸水ケンタです。本当に春休みは暇です。今日も学校に行くために外に出たのですが、それ以外に行くことがありません。
でも最近身体をなまらせないために、バランスボールに乗って筋トレを始めました。とゆってもそんなに長い時間をかけてやっているわけではありません。
だいぶと怠けております。この生活習慣を治すべく、これからは外に出るように頑張ります。(一番外に出ないパターンのやつ)
雑談はこれくらいにしておいて、今回のテーマに入っていきたいと思います。
今回のテーマは、
人間は環境に依存してしまうのか
これについて僕の意見と体験をもとに書いていきたいと思います。
まず読者の皆さん、人間は環境に依存してしますと思いますか? 答えは人によってさまざまにあると思います。なので、一概に絶対にないだろうとかいや100パーセント依存するとも
いえないと思います。また、その人自身の性格にもよってくると思います。
ちなみに僕の意見としては、人間は環境に依存してしまうと思っています。今回のテーマは、依存という言葉と使っているが決してドラッグや何かにおける中毒についてではありません。
今回焦点を当てたいのは、人間の行動についてなので、その辺は誤解なきようよろしくお願いします。
話を戻すと、僕が人間が依存してしまうと思った理由はやっぱり孤独を避けるためにはしてしまうのではないかと思います。
僕は高校時代、そんなに進学校に行っていなかったために、最後まで一人で学校で勉強してることが多くあまり人と話すことがありませんでした。
けれど、僕の場合は、塾に通っていたのでそっちの方で地元の友達と一緒に喋ったり、ご飯を食べたりしていたおかげなのか、孤独感をあまり味あうことはありませんでした。
けれど、もし塾に行っていなかったら孤独感を味あっていたのかもしれません。わからないですけど。僕変わっていますから。
けれど、僕も人間なので、きっと感じていたに違いないと思います。
こんな感じで人々はどこかに自分が所属したグループがあり、そして、心地いいかそうではないのかを置いといてどこかにきっと安心できるような場所を作っているのではないかと思います。
けれど環境に依存するというのはいい面と悪い面があると思っています。
まず
いい面から
環境に依存してしまういい面
環境に依存していい面とは。
それぞれの環境、つまり人のコミュニティーにはそれぞれ色があるのではないかと思います。例えば、ボランティアのグループや会社としてのグループ、また小さなグループで見るといつも遊びに行くグループなどです。それぞれのグループには色があり、こっちのグループではこんなことを話したりすることが多いな、とかこういう行動をすることが多いなとかです。グループによっては嗜好があると思うので、それぞれ傾向が出てくるのではないかと思います。もちろん、変えているグループもあると思いますが。
なのでそのグループにいると自分がそのグループにおける考え方に染まってしまいます。これは、その考え方に強くなるということを意味すると思います。また、自分が前に違うグループに入っていて、違うところに入りそのグループの考え方が新鮮で依存してしまうこともあります。けれど、それは自分にとって新鮮な生き方であるので、きっと自分にとってプラスに動くように思います。
逆に今度は
悪い面において考えてみたいと思います。
環境に依存してしまう悪い面
次に環境に依存してしまう悪い面です。
環境に依存してしまうと自分のそのコミュニティーの考え方に依存してしまい、悪い言い方をすれば依存してしまいます。なので他の所が見えないことがあり、自分では気づかないかもしれませんが、世界が狭まっている可能性があります。たまに、退屈だなと感じてしまう人もいるかもしれません。
マイナス面が思いつかなかったので、少し短くなりましたがこういうプラス面とマイナス面があるように感じます。
なので、心地いいグループにいるのは確かに楽しいかもしれませんが、たまには違うコミュニティーに属してみるのはどうでしょうか?もしかすると新しいことが得られるかもしれません。
もしかしたらそっちの方がもっとたのしいかもしれません。
こんな感じで今日は終わります。読んでくださってありがとうございました