kentatansansuiのブログ

このブログでは、いろんなことをもっと根本の所からみてもらおうという思いの元書いております。普段あまり哲学的なことを考える機会がすくないのではないでしょうか。哲学というのは日常生活にあふれており普段からなじみのあるものです。一緒に哲学を考えてみませんか。日常の疑問についても書いていきたいと思っています。

法律のない世界で人間はいかに生きていくのか

 
 
こんばんわ、今日は友達が起業したのでプレゼンを聞いてきたのですが、自分の思考の深さというか情報収集などが不足しているなとか言ったことを感じさせられました。
情報に関する感度がまだまだなのでこれからも頑張っていきたいと思います。受験時代は、大学や参考書オタクにだったのでそんな感じで、会社についても調べられたらなとか思います。そんなに簡単じゃないし(後で絶対苦戦しているのがほかの人からは見え見えかな)という声が聞こえてきます。
 
 
今日のブログは、自分が普段見ているネットフリックスでのドラマについて紹介したいと思います。ただそのドラマについて紹介するだけでは内容としては少しものたりないのでもうちょっと踏み込んだところまで行きたいと思います。
 
 
僕が最近見ているドラマと言うのは THE 100 というドラマです。
 
 
どういうドラマかと言いますと、短く言うと地球での生活についてのドラマです。
舞台は未来です。地球は核戦争によって、住めない環境、アンハビタブルな環境になってしまい人々は、宇宙に住んでいました。核による環境汚染を解消するためのかかる年月というのは、およそ百年と言われています。ですので、その間宇宙で暮らしており、100年が過ぎたころにその宇宙の自分達の住んでいる中で犯罪を犯した若者を地球に送り、地球が本当に住める環境化にあるのかについてに調査しに行くといったところから物語はスタートします。
 
そこで、様々なことが起こるのですが、言ってしまうと面白くないのでここでは割愛します。
 
今回僕がそのドラマを見て思ったのが、法律のない場所でいったい人間はどうやって暮らしていくのであろうかとということです。
 
そこで今回のブログでは、人間は法律のない場所でいったいどのようにして生活をしていくのかということについて書きたいと思います。
 
 
ドラマの中では、地球にたどり着いた若者たちが、自分たちの生活をし始めます。けれど、そこには様々な性格を持つ人たちがいる。もちろん、頭が切れる人、モノを作るのが得意な人、また頭があまりよくない人だっています。ずっと宇宙の狭い空間に住んでいたので不満だってあります。それが、地球に着いた瞬間から解放されます。なので、本当の意味での自由が待ち受けているということになります。
 
そこで始まるのが権力闘争。最初は頭の良い人たちが権利を握ろうとして、リーダーシップを図ります。政治の場面がよくわかりやすい例になりますが、全員が全員その権力者が考えることに対して満足するわけではありません。
 
となると、また新たなリーダーシップを図ろうとする人が出てくる。この構図どこかで見たような感じがしますが、次に出てくるのは、物理的に力の強い人達が出てきます。そしてその人を中心に物事が進められていきます。
 
これを私たちに置き換えていきましょう。今、火星に住めるのではないかといろいろプロジェクトが動いていますが、仮に私たち人類が火星に行けたとしましょう。そして、上記と同じように様々な人たちと共に実験的に暮らすことになったとします。
 
すると、自分たちで法律を作り始め、暮らし始めます。法律というのは、日本国憲法のように条文の状態ではないので、全員が守るわけではありません。するとどうなるでしょうか。上に書いたことと一緒で物理的に強い人たちが暴力によって権力を握り始めます。
 
すると、結果どうなっていくでしょうか。答えは、混乱した世界になり、人間の欲望という欲望が丸出しになっていく状態になってしまう、まさにカオス。もしかするとそこから、いわゆるインテリの人たちが戻していくのかもしれませんが、簡単に変えることはできません。ということは、その間に生活に必要なものがだんだんとなくなっていき結果的に全滅ということになってしまうのかもしれません。
 
こうなってしまうと、もうどうにもなりません。あとは滅びていくだけでしょうか。
 
僕にはこれをどうやって解決していけばいいのかについての答えはまだありませんが、あなたはどうでしょうか。もしあれば教えてください。
 
そこで今回は初の試みとして、考えること(自分にとっての課題)を最後に書いて終わりにしたいと思います。
 
お題はこうします。あなたは法律のない世界をどうやって一から作っていきますか?
 
今回初めてこのようなことを始めたのですが、読者の皆様もよろしければ一緒に考えていただけるととてもうれしく思います。
 
これで今日は終わりにします。読んでくださってありがとうございました。

頭に入る本の読み方

 

kentatansansui.hatenadiary.com

 

こんばんわ、炭酸水ケンタです。今日は遅い時間のブログ更新となります。
なぜかというと、最近日本史の勉強をし始めまして、なかなかページ数が多くてしんどいから遅れました。実際はバイトをしていたからです。今日も日本史の勉強少ししかしていません。
やる気あんのかっていう感じなんですが、やる気だけはいつもあります。だけですよ、
だけ、、、、。
 
今日は日本史について書きたいところなんですが、まだ知識が定着しておらんので、ほかの事書きます。若干上で日本史の話をしておいての、全然違うことを話す。
 
 
こんな雑談はさておき、今日の話題といきましょう。
 
先日というか、さっき面白い記事を読みました。読書についてです。読書お好きでしょうか。
僕の経験上、八割の人が読書を嫌うというかしない傾向にあるような感じがします。
何故でしょうか?テクノロジーが進化したから?そうじゃないと思います。テクノロジーが進歩してもなお本を読む人はいつも読みます。人間の集中力が低下したから?いや、集中力が低下しても、本は読めます。僕読めてます。集中力は本当に人一倍ないですが、本を継続して読むことができます。
 
じゃあ何が原因なのかと言われると、少し困りますが、僕の考えはこうです。
 
第一に、本というのは、めちゃくちゃ難しいイメージがあるから、読んでも理解できないと思っている+ページ数がやたら多い。
二つ目に、時代に合わないと思っている。今の時代先ほどスマホは原因ではないと言いましたが、直接的な原因ではなく間接的に影響を及ぼしているのかなと思います。
言いたいことは、スマホによって、もっと言えば、検索エンジンのおかげで、ほとんどあらゆる情報がすぐに手に入れることができます。つまり、スピード感が求められる時代になってきた。ということは、時間が莫大にかかる本を読むという作業、作業というと義務感が強いので、本を深く読む行為自体が時代遅れになりつつあるというのが最近感じることです。
 
昔から、わかりやすい本というのは重宝されるが、その傾向がさらに強くなっている気がするこのころ。いかにわかりやすく読者に伝えるかというのが、肝になってきている気がします。肝心の内容は・・・ていう感じですけどそこは本人の努力に任せるという感じですね。
 
話を戻すと、面白い記事の内容というのは、本をどう読むかということです。
 
本と言われると、最初から最後まで読んでこそ元が取れる、または意義があるなどを思う人がほとんどではないでしょうか。それをやめてしまいましょうというのが、今回の内容です。なぜかというと、本のすべては頭に入れることができないからです。せいぜい入っても一割、もしくは二割程度くらい。それじゃあ、その二割を長くずっと記憶に残しておくということです。そのためには全部読む必要がなく、自分の気に入ったところだけを読みそれをまとめておくことです。
 
今思うとそういった本の読み方もありだな、いいなと思ったのでブログに書きました。
 
締りが悪いですがここで終わります。
読んでくださってありがとうございました。
 
過去の本に関するブログも上にあります。参照程度に

文学部に入るまでの経緯と入学後の事

こんにちは、炭酸水ケンタです。
 
今日は、僕がなぜ今の学部に入ろうと思ったのかについて書きたいと思います。それと共に、入ってからのギャップみたいなものはあったのかについてもかいていきます。
 
僕は文学部のいわゆる英米学科に所属しております。まず覚えてほしいのは僕は全く文学部に入ろうなんて思っていませんでした。まさか自分が文学部にいるとは今でも驚きです。
というのは、前のブログにも書いたのですが、僕は大の本嫌いです。中高とかになったら国語のテストとか増えてくると思うのですが、本当に嫌いすぎて毎回悪い点をたたき出しては、それでも文系かと言われるくらいでした。本を読むくらいなら、外で友達と遊戯王したりモンスターハンターしたり鬼ごっこしたりして遊びたいという子供でした。その結果感じなんか小学生レベルで止まっていました。なんていう大学生なんでしょう、っていうところだと思いました。
そんなこんなで最初は理系に行って物理を勉強したいとか思っていました。当時僕が高校生の頃、福山雅治主演のガリレオが流行っていたこともあり物理って素晴らしいなとか思っていました。
けれど、ある大学の物理学科のオープンキャンパスに行った時に衝撃を受けてやめてしまいました。こんなに優しいような学問ではないと。そういうこともあり、文系になりました。
 
けれど、文系だけどどこの学部に入ろうと考えた時にたまたま言っていた塾の先生の英語がすごく面白くて英語を勉強しようと思って外国語学部を目指そうと思っていました。また、その頃に話したチューターさんが外国語学部で言語学について勉強していたこともあり、話を聞いているうちに面白いと感じ、外国語学部を目指していました。
 
それに向けて勉強していたのですが、あっけなく落ちてしまったので、今自分が通っている大学の文学部に入るという経緯です。
 
文学部を選んだのは英語が勉強できるからというだけの理由です。別にほかの授業なんか気にしたこともありませんでした。
 
こういう経緯で入った文学部なのですが、僕の思っていたイメージとはちょっと違いました。文学部英米学科では僕の大学が少し違うのかもしれませんが、すごい英語の勉強がとても多いです。つまり外国語に関しての授業です。例えば、英作文の授業だったり、オーラルの授業であったり、読解のための授業などです。もっと文学部というと、おそらく一般的なイメージからすると、シェイクスピアなどの代表作を主に勉強していくというのかと思いきや英語の授業が先行していました。それは一年生だったので仕方ないのですが、入学して英語の授業ばかりを受けていてとても飽き飽きしたのを覚えています。
 
けれど、二年生になるとそれは少しずつ変わってきました。段々と専門性が高まっていき、英語学やアメリカ文学やイギリス文学についてべんきょうすることになりました。
英語学は、高校の時の英語の勉強を実際に言語化したり、実際に理論化したらそういうことなのかといった感じでした。なので基礎の所は割とスムーズに乗り越えることができたと思います。けれど、あとで痛い目を見ました。何事もなめてかからずに一生懸命に勉強しないといけませんね。
それから文学について。僕は最初は文学について全く興味がなかったのでどうにでもなれーっていう感じで勉強していました。アメリカ文学とか勉強する意味とか思っていました。
けれど、それは徐々に変わってきました。文学というのはとても抽象的でその人がどんな時代にどういう思いというか気持ちで書いていたのかを、背景と共に勉強することができます。これというのは、哲学の勉強の延長線であり、世界史の延長線でもあるといった感じでとても奥が深い学問となっております。まだ学部生の段階であり最近本を読み始めたということもあり全く理解していないのですが、こういう学問であるということを覚えていただければ幸いです。
 
 
文学部では主にこういったことを勉強します。なのでもし文学に興味があるとか英語が大好きな人にはもちろんおすすめなのですが、普段からあれこれ考えるのが大好きとかいった方にもとてもおすすめです。文学を学ぶことは、時に人生において助言を与えてくれることもあります。過去の著者がどういった生き方をしていたのかを学ぶことができます。
 
なのでとてもおすすめします。この頃では、文学部を廃止して、理系学部をもっと応援していこうといった傾向がありますが、文学部は文学部なりに学ぶことが本当にたくさんあります。実際に実践的なところに関わっていくのかと言われれば、怪しいですが考える思考能力は本当に役に立つと思います。スペースX社のCEOであるイーロン・マスクも哲学をはじめとするいろんな学問を勉強しています。必ずや役に立つ時が来ます。
 
 
 
この辺で今日は終わります。ありがとうございました

文字の偉大さ

こんにちは、炭酸水ケンタです。
最近ようやくバイトに行く回数が増えてきてお金がたまるんかなと実感していく日々が続いております。けれど、まだまだなのでこれからの頑張ってバイト行き続けます。
 
今日は短いと思いますが、小説を読むということについて書きたいと思います。
 
僕はちなみに文学部に所属していまして、アメリカ文学であったりイギリス文学であったりについて勉強しています。けれど、別に小説について深く学ぶというよりは、作者の背景や歴史について学ぶといった感じです。なのでいまだに小説がなぜ面白いのかといったことがわかりません。それは自分で考えなくてはならないのは自明ですが。
 
話が少し変わりますが、文学部に所属している僕ですが、大学に入るまで本をほとんど読んだことがありませんでした。本を読むよりも外で友達と一緒に遊んだり、家でゲームをしたりすることの方が楽しかったからです。それだけで満足でした。高校まではそれでいいと思っていました。
 
けれど、それは最近違うな、ということに気が付きました。何があったのかというと、小説など本を読む人と読まない人を比べると、やっぱり語彙力の違いや経験の違いがあるんだなと思うようになってきたことです。
ちなみに経験とはどういう意味かというと、文字通りの意味なのですが、自分の身の回りに起きた出来事を実際に体験しているという意味です。
 
小説と経験という関係性は一見おかしいような感じがしますが、それは違う気がします。
小説は人々に疑似体験のようなものを一つのストーリーから会得することができます。
それに伴って、小説を読んでいるときには必ず想像をすると思うので、その想像が一つの体験として頭の片隅に残ります。そして、また新たな本を読むときにもその体験が、活かされるというわけです。
特に小説を読むときにはこのようなことを意識する必要はないとは思うのですが、僕の一意見としてこういうことを思いました。人それぞれ本を読む理由はあると思うので、自分の考えを大事にしてもらえればなと思います。もしよければ、あなたのなぜ読書をするのかという考えについても教えていただければ非常にうれしいです。
 
 
短いですがこれで終わります。読んでくださってありがとうございます。

生み出す

こんにちは、炭酸水ケンタです。
 
今日は、雑談なしで書いていきたいと思います。なぜって?花粉症がつらいからです。
本当に昨日くらいから鼻水が止まりません。しんどいです。
 
今日はお金について書きたいと思います。プロフィールにもある通り僕は大学生です。なので社会人の人たちと比べると圧倒的にお金が少ないなかで生活していかなければなりません。といっても、それは遊ぶお金とか何かを買うお金とか言ったものです。
 
僕はいろんな人の話を聞いてきてお金は後でついてくるものだとか、実力があればお金はおのずからついてくるとか言う人が結構多かったような気がします。すごく自分の人生をしんどい思いをしながらも謳歌した人生をきっと送っているんだなという印象を受けました。
 
その時僕も、「よし、自分も実力を付けて頑張るぞ」とか思っていました。まだ思考がおぼこいので、大学生の内に来るんだなと思っていました。けれど、それは全く来ません。確かにアルバイトなどをすれば、働いた分だけ自分の給料として自分の口座に入ってきます。けれどそれはみんな一緒です。特にこの能力がずば抜けて必要なわけでもなく、割と誰でもできるような仕事をさせられるのがアルバイトだと思います。
 
 
たまに、能力値とか経験値が必要なバイトがあるのかもしれませんが、ほとんどそれはインターンシップとかいった形で実施されるものだと思います。
ある程度の慣れも必要になりますが、慣れればおちゃのこさいさいといった印象も見受けられます。
 
そんな中で、ずっとバイトをしていると社会の初めの一歩としては十分すぎるほどの社会経験を積めるのは間違いないのですが、けれどアルバイトにかけているところがあります。
 
それは能動的に何かをすることができないということです。自分で一から何かを作り上げることはできないということです。そして、枠がなくなった瞬間に途方に暮れてしまい自分の無知について身に染みる時間と出会います。
 
その時に思うのが、「ああーなんて自分って無知な人間なんだろうか、なにも提供することができないし何も教えることができていない」高校のころはもっと人生は明るいものだと思っていた時とのギャップがすごすぎて耐えれないといった感じになっています。
 
そんなことを考えていると本当にお金というものを生み出すのがどれだけ大変なのかということが実感できます。と共にたとえ生み出すことができたとしても絶え間ない努力が必要であることもだんだんと実感としてありつつあるのかなとか思ったりもします。
 
そんななかで考えてみたいのは、バイトというのは大学生・たまに高校生にとってどういったことをもたらすのかについてです。僕自身答えがでていないのでブログという手段を使って書くことができませんが考えていきたいと思っています。
 
そしてもう一つ疑問に思うのが、どうお金を使えばいいのかということです。僕自身インターネットなどでそのことについてみていると、大学生の内は自分に投資するべきだとか、別に貯金しなくてもいいとか書いてありますが、これといった根拠もないように見受けられます。そして、それをしたからって自分が成功するとは限らないといった印象を受けます。
本当に大事なのは、たとえインターネットでそういう記事を見たとしても最終的には自分の判断ですべてを決めることじゃないのかなと思います。記事などにそういう風に書いてあると信憑性というのが失われるような感じがするので書いていないのだと思います。けれど、自分の意志というのが本当に大事だと思います。
 
人間は失ってから初めてわかる、これも事実なんじゃないかと思ったりもします。
感情もそこにだいぶ挟まってくるのでそれが正しいとは限りませんが。
 
 
今日はこれで終わりたいと思います。読んでくださってありがとうございます。

日本の文化を学ぶということ

こんにちは、炭酸水ケンタです。三月ももう中盤に差し掛かり新しいことが始まります。
小学校・中学校・高校、そして大学などでも卒業式がある季節となってきました。自分がお世話になった友達や先生などとお別れしてしまう季節になりますが、新しいことが待っています。困難なこともたくさんあるのかもしれませんが、人生を楽しんで生きていってほしいと思います。
 
 
雑談はこれくらいにしておいて、今日のテーマに入っていきます。
 
今日のテーマは、  日本の文化について学ぶことの意義  です。
 
 
読者の皆さんはおそらく日本で暮らしてきて、今も日本にいるのだと思います。けれど、日本に住んでいながらも日本の文化のことについて意識したことがありますか?
僕は正直に言うと全くありません。日本の文化についての面白さというのが全く分からないですし、正直めんどくさいというのが本音です。
 僕も一か月だけ留学に行ったことがあるのですが、いつも日本の文化についてよく知らなければと思っていました。けれど、それってどういう意味なんでしょうか。
 
日本の文化について知るってどういう意味?
 
建造物が何年に建てられて、だれがそこに住んでいてこんなすごい歴史があるんだよっていう知識を覚えることでしょうか。また、ただ日本庭園や日本武道などを体験しこれをやったことがあるということを語ることでしょうか。また、これがどんなものでなどなど。
 
僕は違うと思います。僕は日本人なので海外の方がどんな考え方をしているのかはわかりませんが、僕はこうだと思っています。
 
彼らが本当に知りたいものは、日本人が自分の文化についてどういう風に考えているのあではないでしょうか。今時日本についてGoogleで調べれば完全な情報でないかもしれないですが、ほとんどの情報が出てくるような気がします。けれど、それに対する意見というのは、人によって全然違うのでそれは検索したとしてもほとんどヒットしないでょう。
 
なので、もし日本の文化について学ぶとしたら自分の考えというモノが大事になっていきます。けれど、自分の考えなんかないよという声が聞こえてきそうなので一つだけ例を挙げたいと思います。
 
例えば、日本語の文章の構成や今の若者言葉などはどうでしょうか?少し日本文化とはかけ離れた気がしますが、十二分に日本というものがどういう国なのかというのがわかるのではないでしょうか。
 
また日本の文化についてだとしたら、詩などが面白いのかなと思います。確かに詩というのはその人の独特の表現で表されたものなのでわかりずらいかもしれません。けれど、自分の意見が出てくるものは絶対に出てくるはずです。そこから始めていけば、日本の文化について学ぶための第一歩になるのではないででょうか。
 
日本の文化を学ぶことは簡単ではありません。学問として成り立っている分野なのですから、時間をかけて学ばなければなりません。なので時間がとられてもっとほかの事を勉強したいというのであればそれでいいような気がします。日本の文化は大事ですが、無理にムキになって学ばなくてもいいんじゃないかなと思ったりもします。
 
 
今日はこれくらいで終わります。

一日

時はなにもしなくとも過ぎていき、歳だけが自分の上にのっかってくる。ああ、すごく重たいなのけてこれを他人に売ることができないものだろうかとため息をつく。
そうして、20代が終わっていき、気が付くと周りもどんどん変わっていく。自分の掲げていた夢・目標といったものは一体どこに行ったのやら。そんな時に考えてしまうのが
「あー、二十代に戻りてぇ~」いやもっと前かもしれない。自分はいつからこんなに怠惰な生活を送り、この道を選択してしまったのであろうか。いっそ、一回ゲームオーバーになって
もう一度最初に戻れないものだろうかと考えたりもする。けれども、すぐに 「あれは現実のものではない、空想だけ、もしくはゲームの世界の中にだけ存在するものである」と学者になったつもりで少し堅い感じで言ってみる。そうしているうちに、昔のものなんかを探し始めてしまい、懐かしいものを見つけてしまうのがオチではないだろうか。そして、見つけたとたん、自分がもう50年も60年も生きた気分になるような衝動に駆られ、涙がほろほろと出てくる。そんなに悲しい思い出でもないのにも関わらず、ぽたぽたと地面に落ちていく。なぜなのか。そう懐かしさがこみあげてくるのである。
自分はあの時が一番楽しかったと、アルバムの写真を一枚一枚自分の現在の目で見ながら過去の回想を図ろうとする。そう、現実逃避の一種である。そして、もう一度昔に戻って時間をあの頃に戻してほしいと願うのである。かなわない願いだとわかっておきながらも。そして、ふと我に返ったように台所を見てみた。そこには小さいころの自分が、冷蔵庫からこっそりアイスを取ろうとしている。そう季節は夏なのである。まるで漫画みたいなシチュエーションだなと思いながらも、本当に自分のやったことなのではっきりと思い出す。そこに母親がきて、、、、。こんな風景を思い出すのではないだろうか。回想は途中で終わってしまったが今になって思うことというのはきっとこうだろう。「自分は幸せだった」。生きていける家がある。見返りを期待せずに愛情を与え続けてくれる母親がいる、父親がいる。今もまだ生きているのだが、遠く離れたところに住んでいる。なので、電話することはできたとしても直接会うことはできないのである。そして、アルバムをゆっくりと閉じ、床の上に置く。そして、我に返る。我に返ると言っても目が覚めただけなのであるが。今のは夢だったのかと気づき今日も一日がんばるぞと言い、いつも通り朝食を食べるのであった。