kentatansansuiのブログ

このブログでは、いろんなことをもっと根本の所からみてもらおうという思いの元書いております。普段あまり哲学的なことを考える機会がすくないのではないでしょうか。哲学というのは日常生活にあふれており普段からなじみのあるものです。一緒に哲学を考えてみませんか。日常の疑問についても書いていきたいと思っています。

一日

時はなにもしなくとも過ぎていき、歳だけが自分の上にのっかってくる。ああ、すごく重たいなのけてこれを他人に売ることができないものだろうかとため息をつく。
そうして、20代が終わっていき、気が付くと周りもどんどん変わっていく。自分の掲げていた夢・目標といったものは一体どこに行ったのやら。そんな時に考えてしまうのが
「あー、二十代に戻りてぇ~」いやもっと前かもしれない。自分はいつからこんなに怠惰な生活を送り、この道を選択してしまったのであろうか。いっそ、一回ゲームオーバーになって
もう一度最初に戻れないものだろうかと考えたりもする。けれども、すぐに 「あれは現実のものではない、空想だけ、もしくはゲームの世界の中にだけ存在するものである」と学者になったつもりで少し堅い感じで言ってみる。そうしているうちに、昔のものなんかを探し始めてしまい、懐かしいものを見つけてしまうのがオチではないだろうか。そして、見つけたとたん、自分がもう50年も60年も生きた気分になるような衝動に駆られ、涙がほろほろと出てくる。そんなに悲しい思い出でもないのにも関わらず、ぽたぽたと地面に落ちていく。なぜなのか。そう懐かしさがこみあげてくるのである。
自分はあの時が一番楽しかったと、アルバムの写真を一枚一枚自分の現在の目で見ながら過去の回想を図ろうとする。そう、現実逃避の一種である。そして、もう一度昔に戻って時間をあの頃に戻してほしいと願うのである。かなわない願いだとわかっておきながらも。そして、ふと我に返ったように台所を見てみた。そこには小さいころの自分が、冷蔵庫からこっそりアイスを取ろうとしている。そう季節は夏なのである。まるで漫画みたいなシチュエーションだなと思いながらも、本当に自分のやったことなのではっきりと思い出す。そこに母親がきて、、、、。こんな風景を思い出すのではないだろうか。回想は途中で終わってしまったが今になって思うことというのはきっとこうだろう。「自分は幸せだった」。生きていける家がある。見返りを期待せずに愛情を与え続けてくれる母親がいる、父親がいる。今もまだ生きているのだが、遠く離れたところに住んでいる。なので、電話することはできたとしても直接会うことはできないのである。そして、アルバムをゆっくりと閉じ、床の上に置く。そして、我に返る。我に返ると言っても目が覚めただけなのであるが。今のは夢だったのかと気づき今日も一日がんばるぞと言い、いつも通り朝食を食べるのであった。