kentatansansuiのブログ

このブログでは、いろんなことをもっと根本の所からみてもらおうという思いの元書いております。普段あまり哲学的なことを考える機会がすくないのではないでしょうか。哲学というのは日常生活にあふれており普段からなじみのあるものです。一緒に哲学を考えてみませんか。日常の疑問についても書いていきたいと思っています。

文字の偉大さ

こんにちは、炭酸水ケンタです。
最近ようやくバイトに行く回数が増えてきてお金がたまるんかなと実感していく日々が続いております。けれど、まだまだなのでこれからの頑張ってバイト行き続けます。
 
今日は短いと思いますが、小説を読むということについて書きたいと思います。
 
僕はちなみに文学部に所属していまして、アメリカ文学であったりイギリス文学であったりについて勉強しています。けれど、別に小説について深く学ぶというよりは、作者の背景や歴史について学ぶといった感じです。なのでいまだに小説がなぜ面白いのかといったことがわかりません。それは自分で考えなくてはならないのは自明ですが。
 
話が少し変わりますが、文学部に所属している僕ですが、大学に入るまで本をほとんど読んだことがありませんでした。本を読むよりも外で友達と一緒に遊んだり、家でゲームをしたりすることの方が楽しかったからです。それだけで満足でした。高校まではそれでいいと思っていました。
 
けれど、それは最近違うな、ということに気が付きました。何があったのかというと、小説など本を読む人と読まない人を比べると、やっぱり語彙力の違いや経験の違いがあるんだなと思うようになってきたことです。
ちなみに経験とはどういう意味かというと、文字通りの意味なのですが、自分の身の回りに起きた出来事を実際に体験しているという意味です。
 
小説と経験という関係性は一見おかしいような感じがしますが、それは違う気がします。
小説は人々に疑似体験のようなものを一つのストーリーから会得することができます。
それに伴って、小説を読んでいるときには必ず想像をすると思うので、その想像が一つの体験として頭の片隅に残ります。そして、また新たな本を読むときにもその体験が、活かされるというわけです。
特に小説を読むときにはこのようなことを意識する必要はないとは思うのですが、僕の一意見としてこういうことを思いました。人それぞれ本を読む理由はあると思うので、自分の考えを大事にしてもらえればなと思います。もしよければ、あなたのなぜ読書をするのかという考えについても教えていただければ非常にうれしいです。
 
 
短いですがこれで終わります。読んでくださってありがとうございます。

生み出す

こんにちは、炭酸水ケンタです。
 
今日は、雑談なしで書いていきたいと思います。なぜって?花粉症がつらいからです。
本当に昨日くらいから鼻水が止まりません。しんどいです。
 
今日はお金について書きたいと思います。プロフィールにもある通り僕は大学生です。なので社会人の人たちと比べると圧倒的にお金が少ないなかで生活していかなければなりません。といっても、それは遊ぶお金とか何かを買うお金とか言ったものです。
 
僕はいろんな人の話を聞いてきてお金は後でついてくるものだとか、実力があればお金はおのずからついてくるとか言う人が結構多かったような気がします。すごく自分の人生をしんどい思いをしながらも謳歌した人生をきっと送っているんだなという印象を受けました。
 
その時僕も、「よし、自分も実力を付けて頑張るぞ」とか思っていました。まだ思考がおぼこいので、大学生の内に来るんだなと思っていました。けれど、それは全く来ません。確かにアルバイトなどをすれば、働いた分だけ自分の給料として自分の口座に入ってきます。けれどそれはみんな一緒です。特にこの能力がずば抜けて必要なわけでもなく、割と誰でもできるような仕事をさせられるのがアルバイトだと思います。
 
 
たまに、能力値とか経験値が必要なバイトがあるのかもしれませんが、ほとんどそれはインターンシップとかいった形で実施されるものだと思います。
ある程度の慣れも必要になりますが、慣れればおちゃのこさいさいといった印象も見受けられます。
 
そんな中で、ずっとバイトをしていると社会の初めの一歩としては十分すぎるほどの社会経験を積めるのは間違いないのですが、けれどアルバイトにかけているところがあります。
 
それは能動的に何かをすることができないということです。自分で一から何かを作り上げることはできないということです。そして、枠がなくなった瞬間に途方に暮れてしまい自分の無知について身に染みる時間と出会います。
 
その時に思うのが、「ああーなんて自分って無知な人間なんだろうか、なにも提供することができないし何も教えることができていない」高校のころはもっと人生は明るいものだと思っていた時とのギャップがすごすぎて耐えれないといった感じになっています。
 
そんなことを考えていると本当にお金というものを生み出すのがどれだけ大変なのかということが実感できます。と共にたとえ生み出すことができたとしても絶え間ない努力が必要であることもだんだんと実感としてありつつあるのかなとか思ったりもします。
 
そんななかで考えてみたいのは、バイトというのは大学生・たまに高校生にとってどういったことをもたらすのかについてです。僕自身答えがでていないのでブログという手段を使って書くことができませんが考えていきたいと思っています。
 
そしてもう一つ疑問に思うのが、どうお金を使えばいいのかということです。僕自身インターネットなどでそのことについてみていると、大学生の内は自分に投資するべきだとか、別に貯金しなくてもいいとか書いてありますが、これといった根拠もないように見受けられます。そして、それをしたからって自分が成功するとは限らないといった印象を受けます。
本当に大事なのは、たとえインターネットでそういう記事を見たとしても最終的には自分の判断ですべてを決めることじゃないのかなと思います。記事などにそういう風に書いてあると信憑性というのが失われるような感じがするので書いていないのだと思います。けれど、自分の意志というのが本当に大事だと思います。
 
人間は失ってから初めてわかる、これも事実なんじゃないかと思ったりもします。
感情もそこにだいぶ挟まってくるのでそれが正しいとは限りませんが。
 
 
今日はこれで終わりたいと思います。読んでくださってありがとうございます。

日本の文化を学ぶということ

こんにちは、炭酸水ケンタです。三月ももう中盤に差し掛かり新しいことが始まります。
小学校・中学校・高校、そして大学などでも卒業式がある季節となってきました。自分がお世話になった友達や先生などとお別れしてしまう季節になりますが、新しいことが待っています。困難なこともたくさんあるのかもしれませんが、人生を楽しんで生きていってほしいと思います。
 
 
雑談はこれくらいにしておいて、今日のテーマに入っていきます。
 
今日のテーマは、  日本の文化について学ぶことの意義  です。
 
 
読者の皆さんはおそらく日本で暮らしてきて、今も日本にいるのだと思います。けれど、日本に住んでいながらも日本の文化のことについて意識したことがありますか?
僕は正直に言うと全くありません。日本の文化についての面白さというのが全く分からないですし、正直めんどくさいというのが本音です。
 僕も一か月だけ留学に行ったことがあるのですが、いつも日本の文化についてよく知らなければと思っていました。けれど、それってどういう意味なんでしょうか。
 
日本の文化について知るってどういう意味?
 
建造物が何年に建てられて、だれがそこに住んでいてこんなすごい歴史があるんだよっていう知識を覚えることでしょうか。また、ただ日本庭園や日本武道などを体験しこれをやったことがあるということを語ることでしょうか。また、これがどんなものでなどなど。
 
僕は違うと思います。僕は日本人なので海外の方がどんな考え方をしているのかはわかりませんが、僕はこうだと思っています。
 
彼らが本当に知りたいものは、日本人が自分の文化についてどういう風に考えているのあではないでしょうか。今時日本についてGoogleで調べれば完全な情報でないかもしれないですが、ほとんどの情報が出てくるような気がします。けれど、それに対する意見というのは、人によって全然違うのでそれは検索したとしてもほとんどヒットしないでょう。
 
なので、もし日本の文化について学ぶとしたら自分の考えというモノが大事になっていきます。けれど、自分の考えなんかないよという声が聞こえてきそうなので一つだけ例を挙げたいと思います。
 
例えば、日本語の文章の構成や今の若者言葉などはどうでしょうか?少し日本文化とはかけ離れた気がしますが、十二分に日本というものがどういう国なのかというのがわかるのではないでしょうか。
 
また日本の文化についてだとしたら、詩などが面白いのかなと思います。確かに詩というのはその人の独特の表現で表されたものなのでわかりずらいかもしれません。けれど、自分の意見が出てくるものは絶対に出てくるはずです。そこから始めていけば、日本の文化について学ぶための第一歩になるのではないででょうか。
 
日本の文化を学ぶことは簡単ではありません。学問として成り立っている分野なのですから、時間をかけて学ばなければなりません。なので時間がとられてもっとほかの事を勉強したいというのであればそれでいいような気がします。日本の文化は大事ですが、無理にムキになって学ばなくてもいいんじゃないかなと思ったりもします。
 
 
今日はこれくらいで終わります。

一日

時はなにもしなくとも過ぎていき、歳だけが自分の上にのっかってくる。ああ、すごく重たいなのけてこれを他人に売ることができないものだろうかとため息をつく。
そうして、20代が終わっていき、気が付くと周りもどんどん変わっていく。自分の掲げていた夢・目標といったものは一体どこに行ったのやら。そんな時に考えてしまうのが
「あー、二十代に戻りてぇ~」いやもっと前かもしれない。自分はいつからこんなに怠惰な生活を送り、この道を選択してしまったのであろうか。いっそ、一回ゲームオーバーになって
もう一度最初に戻れないものだろうかと考えたりもする。けれども、すぐに 「あれは現実のものではない、空想だけ、もしくはゲームの世界の中にだけ存在するものである」と学者になったつもりで少し堅い感じで言ってみる。そうしているうちに、昔のものなんかを探し始めてしまい、懐かしいものを見つけてしまうのがオチではないだろうか。そして、見つけたとたん、自分がもう50年も60年も生きた気分になるような衝動に駆られ、涙がほろほろと出てくる。そんなに悲しい思い出でもないのにも関わらず、ぽたぽたと地面に落ちていく。なぜなのか。そう懐かしさがこみあげてくるのである。
自分はあの時が一番楽しかったと、アルバムの写真を一枚一枚自分の現在の目で見ながら過去の回想を図ろうとする。そう、現実逃避の一種である。そして、もう一度昔に戻って時間をあの頃に戻してほしいと願うのである。かなわない願いだとわかっておきながらも。そして、ふと我に返ったように台所を見てみた。そこには小さいころの自分が、冷蔵庫からこっそりアイスを取ろうとしている。そう季節は夏なのである。まるで漫画みたいなシチュエーションだなと思いながらも、本当に自分のやったことなのではっきりと思い出す。そこに母親がきて、、、、。こんな風景を思い出すのではないだろうか。回想は途中で終わってしまったが今になって思うことというのはきっとこうだろう。「自分は幸せだった」。生きていける家がある。見返りを期待せずに愛情を与え続けてくれる母親がいる、父親がいる。今もまだ生きているのだが、遠く離れたところに住んでいる。なので、電話することはできたとしても直接会うことはできないのである。そして、アルバムをゆっくりと閉じ、床の上に置く。そして、我に返る。我に返ると言っても目が覚めただけなのであるが。今のは夢だったのかと気づき今日も一日がんばるぞと言い、いつも通り朝食を食べるのであった。

優しさについての考察

こんにちは、炭酸水ケンタです。今日は久しぶりに学校に行く機会があり学校にて執筆しております。と言っても、書類一つ出しにいくだけですけどね。しかも一人で行く学校はなかなか悲しくなるものです。けれど、読みたかった本を借りることができたので今日は良しとしておきます。学校にいくまでの道のりを歩いたりもしているのでいい運動にもなりました。運動不足解消にはまだまだ程遠いですけどね。あの頃は運動してたのに、今はこの通りただの怠け野郎になってしまいました。改善できるように頑張ります。
 
雑談はこれくらいにしておいて、今日の本題に入っていきたいと思います。
 
今日のテーマは 優しさについて です。
 
やさしさと言われるとどんなことを思い浮かべますか。
思い浮かべやすいのが、おばあちゃんの荷物を持ってあげるシーンではないでしょうか。
おばあちゃんが荷物を重たそうにして、横断歩道を渡っている、このままじゃ赤になってしまうかもしれない。だから、私が助けてあげなければ。といった感じの風景です。
まあこれもメディアの影響かもしれませんが、一番わかりやすい例だと思います。確かにこの部類の優しさもあります。けれど、今回僕が書きたい優しさというのは、成長するための優しさです。
先ほどのおばあちゃんの例はもう使えないので別の例を使ってどういう意味かについて書いていきたいと思います。
 
学生時代アルバイトというのをしたことがあると思います。アルバイトというと確かに大学生にとっては、貴重なお金を稼ぐ手段の一つになります。他にもブログをするとか、自分で会社を作ってビジネスをするだとかありますが、簡単なものではないのでここでは省いておきます。
 
話を戻すと、アルバイトをしていると怒られた経験はありませんか。「そんなことはないぜ、優秀やしむしろバイトリーダーやから上に立つ存在やねん」という人はいいのですが、一般的には怒られることもあると思います。
 
その時、それは単に怒られてムカついて終わるのはもったいなくありませんか?
怒られたというのは、きっともっとできるから怒られたのであって、無理な人に対しては絶対怒らないような気がします。僕が言いたいのは、その怒りというのは、やさしさの怒りであって、ただ叱られているだけではないということです。
僕も、叱られると最初はこの人ムカつくとか思ったりしますが、後になると怒られたことが頭に残っていて、それが成長につながることが多い気がします。怒られたら、やり方を変えようとしますよね。姿勢を変えようとしますよね。
それこそ成長なのではないでしょうか。それこそ、やさしさではないでしょうか。
 
もし、怒られずにほったらかしにされ、何も言われなければどうでしょうか。また、言われるけどすごく優しく言われるとどうでしょうか。確かにこの人優しいな、とは思いますが、何も言ってくれないんだなとか思ったりします。
 
それは、時に孤独につながり、不安を与えてしまうのではないかと思ったりします。
人によっては違うのかもしれませんが、人は孤独を嫌いいつでも同調を求めて歩き回っています。
 
なので、怒るというのは、ポジティブに言うと同調に入っていることの証なのではないかと。怒られたら作業効率が下がるといったデーターも確かに存在はしますが、そればかりが正しいということではない気がします。
 
 
なので、怒ることはたいせつなのではないでょうか。間違えてはいけないのは、人を殴ったり蹴ったり言葉の暴力をしては絶対にいけないということです。
 
 
それを気を付ければ、怒ることは悪くないようには僕は思います。
 
 
今日はこれくらいにしておきます。読んでくださってありがとうございました。

平和は来るのか

こんにちは、炭酸水ケンタです。久しぶりの更新になりました。最近は、あまりパソコンに触りたくない期間が続いてまして、
ずっと本を読むとか、外に出てあてもなくふらっとどこかに行くこともありました。
だいたいどこかの本屋目指していきます。たまに好奇心で少し危なそうな道を通ったりと、スリルはあまりなかったのですが。
そんなこんなでブログをほったらかしにして、ずっとほっつき歩いてました。もちろん生活は普通にしてました。
健康には人一番気を付けているので。そこだけは自身あります。
 
 
雑談はこれくらいにしておいて、今日のテーマに行きます。
 
 
今日のテーマは  平和 について話したいと思います。
 
平和というと、日本の中では、当たり前のように毎日平和な世界がいいなとか、もっと平和になったらいいのになとかつぶやかれたりします。
まずは、日本という一つの国の中だけで考えてみると本当はどうなのでしょうか。平和なんでしょうか。
 
答えはもちろんイエスです。
 
けれど、平和の定義というのは何なのでしょうか。テロや戦争が全く起こらずに毎日安心して暮らせることでしょうか。それとも、犯罪が全く起こらずに新の意味で本当になにも起こらない世界になることなのか。
 
案外、あいまいな感じだと思います。
 
僕の中でもすごく曖昧なのですが、僕自身は、テロや戦争などが起こらなければ平和ではないのかなと思います。
 
 
少し話が変わるのですが、平和というのは、本当に存在するのでしょうか。
先ほどまで日本は平和な国とかという話で、平和というのはあるのかもしれませんが、
世界中での平和について考えてみると、地球全体を見た時には、平和は絶対存在しない気がします。
 
なぜか?一言でいうと、面白くないような世界になってしまうからではないでしょうか。
 
連日のように、ニュースなどで犯罪が起きて人なくなってしまったとか、戦争が起きて大変そうとか思ったりすると思うのですが、結局根本な解決策というのは、絶対にないはずです。人類これまで何千年間と生きてきて、哲学をはじめてとして、様々な学問が生まれてきました。
 
こんなにも、頭がいいのにも関わらず根本問題というのは、何もなくなりません。
確かになくなるのかもしれませんが、会議などになると必ず平和になることと反対の主張をする人や、自分の利益を優先して考える人というのが
後を絶たずにここまで引きずってきています。
 
どちらか言うと、悪の方面の方が7:4くらいの割合でずっと勝ってきているような感じがします。
 
だから、本当の平和は来ないのかと言われると、イエスと言いたいところなのですが、あえて今回は ノーと言っておきます。
 
なぜなら、人間は賢いから。人種差別の問題なども昔は黒人の人たちが差別されていて、太刀打ちできない状況でした。けれど、昔よりは断然いい環境になったところを見るとこれからの人類には希望はあるではないかと思ったりします。歩みは確かに遅いかもしれません。解決に至るまでに何100年とかかるかもしれません。けれど、時間というのを待ち解決していくしかありません。また、世論を変えていくというのも手かもしれません。世界を変えていくのです。一人では決してできないことかもしれませんが、
 
世界の人は平和を求めています。
 
安心を求めています。
 
一人では無いことは確実です。
 
頑張りましょう、と言っても何も始まらないですが、やりましょう。
 
 
これで今日は終わります。読んでくださってありがとうございます。

街の特色

  • こんにちは、炭酸水ケンタです。花粉症の季節で目がかゆくなってきました。
  • けれど、まだ病院に行けずじまいです。まだ、ましやからいいやーとか思っていたら
  • 後から痛い目に合うので、もうすぐ例年通り眼科と耳鼻科に行こうと思っています
  • 今日の雑談はこれくらいにしておいて今日のテーマに入っていきたいと思います
  • 今日のテーマは それぞれの 都道府県の色について  です
  • 日本には皆さんご存知の通り47都道府県があります。そして、それぞれの都道府県には
  • 独自の歴史があり、街並みがあると思います。
  • 一番想像しやすい例でいうと、北海道だと思います。
  • 北海道は、おそらく日本に住んでいる人たちなら持っている共通のイメージは、自然が豊かで綺麗なところ
  • という印象があるのではないでしょうか。
  • 僕自身北海道に行ったことがあるのですが、まさにその通りで自然がとても綺麗で、空気がいいと思いました。
  • けれど、そうでは無いところもありました。それは日本の経済や暮らしを豊かなものにするためといった、
  • 今なくてはならないものなので仕方がありません。
  • けれど、最近になってその県ごとの特色がなくなり、どの都道府県に行っても期待を裏切られるようなことが多いです。
  • 僕が期待しすぎなのかもしれませんが、どこに行っても自分の地元と一緒のような感じがして、何でここに来たんだろう
  • とか、せっかく来たのにもかかわらずすごいお金を無駄遣いしたな、という気分になります。
  • 利便性を追求するあまりにどこもかしこも、ただ一色しかない面白くない街になりつつあると思っています。
  • きっと裏事情としてはいろんなことが絡んでいるのは間違いないのですが、何もすることができないというのが現状なのかな
  • とか思ったりします。
  • けれど、特色というものが生きている街もあると思います。
  • 僕は、関西の方に住んでいてよくたまにいろんなところを散歩したりするのですが、そんな中で特色を発見したところを
  • ここで書いていきたいと思います。
  • 大阪と聞くと皆さんどんなイメージですか?
  • きっと、なんか危なそうとかヒョウ柄の服を着たおばちゃんがいっぱいいるとか、うるさそうとか言ったイメージがあります。
  • 確かに、大阪の中をずっと歩いているとそんな人がいるのは間違いありません。また、イメージからテレビなどでそういった人が
  • 画面上に出ることが多いのでそう思うかもしれません。
  • けれど、探索した経験からいうとそういった人たちはすごくまれでどこに行っても普通の格好をした人たちが歩いているだけのことがほとんど 
  • だと思います。
  • 大阪のイメージは人ばかりに帰結しがちですが、街並みからもよく出ている気がします。
  • 大都市に行くとそれは見えないのですが、いったんはずれるとそれがよく見えます。
  • 僕の思うその街並みというのは、人がとても生きるような作りをしているということです。
  • なので、いわゆる喫茶店というものがよくあったり、商品を売るにしても路地幅の狭いところで売ってその人と
  • コミュニケーションを取りやすいようにしているのかなと思ったりします。そして、そのお店に信頼感を持ち何回でも行きたくなるような
  • 感じがしています。
  • なので、そこで交友関係がとても広がり、困った時の助け合いが日々行われているのではないかと連想するような、雰囲気の町でした。
  • スーパーなどに行ってもコミュニケーションがとらなくなっているこの世の中で、逆にコミュニケーションをとって当たり前のような雰囲気があるというのは
  • 大阪らしくて、普段見れないのでとても新鮮な感じがしました。
  • 普段は僕も含めて都会に行きがちなので、普段見ないところを見てみるとかちょっと都会がつかれたとかいう方に、こういう所に行くことをお勧めします。
  • 改めてここの県ってやっぱりこういう雰囲気であってた、とかなんか思っていた感じとちょっと違うなと思ったりして、新しいことを発見できるかもしれません。
  • その県の特色は 「郊外にあり」 と言う感じですね。
  • ぜひおすすめです。
  • 今日はこの辺で終わります。読んでくださってありがとうございました