kentatansansuiのブログ

このブログでは、いろんなことをもっと根本の所からみてもらおうという思いの元書いております。普段あまり哲学的なことを考える機会がすくないのではないでしょうか。哲学というのは日常生活にあふれており普段からなじみのあるものです。一緒に哲学を考えてみませんか。日常の疑問についても書いていきたいと思っています。

日本の文化を学ぶということ

こんにちは、炭酸水ケンタです。三月ももう中盤に差し掛かり新しいことが始まります。
小学校・中学校・高校、そして大学などでも卒業式がある季節となってきました。自分がお世話になった友達や先生などとお別れしてしまう季節になりますが、新しいことが待っています。困難なこともたくさんあるのかもしれませんが、人生を楽しんで生きていってほしいと思います。
 
 
雑談はこれくらいにしておいて、今日のテーマに入っていきます。
 
今日のテーマは、  日本の文化について学ぶことの意義  です。
 
 
読者の皆さんはおそらく日本で暮らしてきて、今も日本にいるのだと思います。けれど、日本に住んでいながらも日本の文化のことについて意識したことがありますか?
僕は正直に言うと全くありません。日本の文化についての面白さというのが全く分からないですし、正直めんどくさいというのが本音です。
 僕も一か月だけ留学に行ったことがあるのですが、いつも日本の文化についてよく知らなければと思っていました。けれど、それってどういう意味なんでしょうか。
 
日本の文化について知るってどういう意味?
 
建造物が何年に建てられて、だれがそこに住んでいてこんなすごい歴史があるんだよっていう知識を覚えることでしょうか。また、ただ日本庭園や日本武道などを体験しこれをやったことがあるということを語ることでしょうか。また、これがどんなものでなどなど。
 
僕は違うと思います。僕は日本人なので海外の方がどんな考え方をしているのかはわかりませんが、僕はこうだと思っています。
 
彼らが本当に知りたいものは、日本人が自分の文化についてどういう風に考えているのあではないでしょうか。今時日本についてGoogleで調べれば完全な情報でないかもしれないですが、ほとんどの情報が出てくるような気がします。けれど、それに対する意見というのは、人によって全然違うのでそれは検索したとしてもほとんどヒットしないでょう。
 
なので、もし日本の文化について学ぶとしたら自分の考えというモノが大事になっていきます。けれど、自分の考えなんかないよという声が聞こえてきそうなので一つだけ例を挙げたいと思います。
 
例えば、日本語の文章の構成や今の若者言葉などはどうでしょうか?少し日本文化とはかけ離れた気がしますが、十二分に日本というものがどういう国なのかというのがわかるのではないでしょうか。
 
また日本の文化についてだとしたら、詩などが面白いのかなと思います。確かに詩というのはその人の独特の表現で表されたものなのでわかりずらいかもしれません。けれど、自分の意見が出てくるものは絶対に出てくるはずです。そこから始めていけば、日本の文化について学ぶための第一歩になるのではないででょうか。
 
日本の文化を学ぶことは簡単ではありません。学問として成り立っている分野なのですから、時間をかけて学ばなければなりません。なので時間がとられてもっとほかの事を勉強したいというのであればそれでいいような気がします。日本の文化は大事ですが、無理にムキになって学ばなくてもいいんじゃないかなと思ったりもします。
 
 
今日はこれくらいで終わります。

一日

時はなにもしなくとも過ぎていき、歳だけが自分の上にのっかってくる。ああ、すごく重たいなのけてこれを他人に売ることができないものだろうかとため息をつく。
そうして、20代が終わっていき、気が付くと周りもどんどん変わっていく。自分の掲げていた夢・目標といったものは一体どこに行ったのやら。そんな時に考えてしまうのが
「あー、二十代に戻りてぇ~」いやもっと前かもしれない。自分はいつからこんなに怠惰な生活を送り、この道を選択してしまったのであろうか。いっそ、一回ゲームオーバーになって
もう一度最初に戻れないものだろうかと考えたりもする。けれども、すぐに 「あれは現実のものではない、空想だけ、もしくはゲームの世界の中にだけ存在するものである」と学者になったつもりで少し堅い感じで言ってみる。そうしているうちに、昔のものなんかを探し始めてしまい、懐かしいものを見つけてしまうのがオチではないだろうか。そして、見つけたとたん、自分がもう50年も60年も生きた気分になるような衝動に駆られ、涙がほろほろと出てくる。そんなに悲しい思い出でもないのにも関わらず、ぽたぽたと地面に落ちていく。なぜなのか。そう懐かしさがこみあげてくるのである。
自分はあの時が一番楽しかったと、アルバムの写真を一枚一枚自分の現在の目で見ながら過去の回想を図ろうとする。そう、現実逃避の一種である。そして、もう一度昔に戻って時間をあの頃に戻してほしいと願うのである。かなわない願いだとわかっておきながらも。そして、ふと我に返ったように台所を見てみた。そこには小さいころの自分が、冷蔵庫からこっそりアイスを取ろうとしている。そう季節は夏なのである。まるで漫画みたいなシチュエーションだなと思いながらも、本当に自分のやったことなのではっきりと思い出す。そこに母親がきて、、、、。こんな風景を思い出すのではないだろうか。回想は途中で終わってしまったが今になって思うことというのはきっとこうだろう。「自分は幸せだった」。生きていける家がある。見返りを期待せずに愛情を与え続けてくれる母親がいる、父親がいる。今もまだ生きているのだが、遠く離れたところに住んでいる。なので、電話することはできたとしても直接会うことはできないのである。そして、アルバムをゆっくりと閉じ、床の上に置く。そして、我に返る。我に返ると言っても目が覚めただけなのであるが。今のは夢だったのかと気づき今日も一日がんばるぞと言い、いつも通り朝食を食べるのであった。

優しさについての考察

こんにちは、炭酸水ケンタです。今日は久しぶりに学校に行く機会があり学校にて執筆しております。と言っても、書類一つ出しにいくだけですけどね。しかも一人で行く学校はなかなか悲しくなるものです。けれど、読みたかった本を借りることができたので今日は良しとしておきます。学校にいくまでの道のりを歩いたりもしているのでいい運動にもなりました。運動不足解消にはまだまだ程遠いですけどね。あの頃は運動してたのに、今はこの通りただの怠け野郎になってしまいました。改善できるように頑張ります。
 
雑談はこれくらいにしておいて、今日の本題に入っていきたいと思います。
 
今日のテーマは 優しさについて です。
 
やさしさと言われるとどんなことを思い浮かべますか。
思い浮かべやすいのが、おばあちゃんの荷物を持ってあげるシーンではないでしょうか。
おばあちゃんが荷物を重たそうにして、横断歩道を渡っている、このままじゃ赤になってしまうかもしれない。だから、私が助けてあげなければ。といった感じの風景です。
まあこれもメディアの影響かもしれませんが、一番わかりやすい例だと思います。確かにこの部類の優しさもあります。けれど、今回僕が書きたい優しさというのは、成長するための優しさです。
先ほどのおばあちゃんの例はもう使えないので別の例を使ってどういう意味かについて書いていきたいと思います。
 
学生時代アルバイトというのをしたことがあると思います。アルバイトというと確かに大学生にとっては、貴重なお金を稼ぐ手段の一つになります。他にもブログをするとか、自分で会社を作ってビジネスをするだとかありますが、簡単なものではないのでここでは省いておきます。
 
話を戻すと、アルバイトをしていると怒られた経験はありませんか。「そんなことはないぜ、優秀やしむしろバイトリーダーやから上に立つ存在やねん」という人はいいのですが、一般的には怒られることもあると思います。
 
その時、それは単に怒られてムカついて終わるのはもったいなくありませんか?
怒られたというのは、きっともっとできるから怒られたのであって、無理な人に対しては絶対怒らないような気がします。僕が言いたいのは、その怒りというのは、やさしさの怒りであって、ただ叱られているだけではないということです。
僕も、叱られると最初はこの人ムカつくとか思ったりしますが、後になると怒られたことが頭に残っていて、それが成長につながることが多い気がします。怒られたら、やり方を変えようとしますよね。姿勢を変えようとしますよね。
それこそ成長なのではないでしょうか。それこそ、やさしさではないでしょうか。
 
もし、怒られずにほったらかしにされ、何も言われなければどうでしょうか。また、言われるけどすごく優しく言われるとどうでしょうか。確かにこの人優しいな、とは思いますが、何も言ってくれないんだなとか思ったりします。
 
それは、時に孤独につながり、不安を与えてしまうのではないかと思ったりします。
人によっては違うのかもしれませんが、人は孤独を嫌いいつでも同調を求めて歩き回っています。
 
なので、怒るというのは、ポジティブに言うと同調に入っていることの証なのではないかと。怒られたら作業効率が下がるといったデーターも確かに存在はしますが、そればかりが正しいということではない気がします。
 
 
なので、怒ることはたいせつなのではないでょうか。間違えてはいけないのは、人を殴ったり蹴ったり言葉の暴力をしては絶対にいけないということです。
 
 
それを気を付ければ、怒ることは悪くないようには僕は思います。
 
 
今日はこれくらいにしておきます。読んでくださってありがとうございました。

平和は来るのか

こんにちは、炭酸水ケンタです。久しぶりの更新になりました。最近は、あまりパソコンに触りたくない期間が続いてまして、
ずっと本を読むとか、外に出てあてもなくふらっとどこかに行くこともありました。
だいたいどこかの本屋目指していきます。たまに好奇心で少し危なそうな道を通ったりと、スリルはあまりなかったのですが。
そんなこんなでブログをほったらかしにして、ずっとほっつき歩いてました。もちろん生活は普通にしてました。
健康には人一番気を付けているので。そこだけは自身あります。
 
 
雑談はこれくらいにしておいて、今日のテーマに行きます。
 
 
今日のテーマは  平和 について話したいと思います。
 
平和というと、日本の中では、当たり前のように毎日平和な世界がいいなとか、もっと平和になったらいいのになとかつぶやかれたりします。
まずは、日本という一つの国の中だけで考えてみると本当はどうなのでしょうか。平和なんでしょうか。
 
答えはもちろんイエスです。
 
けれど、平和の定義というのは何なのでしょうか。テロや戦争が全く起こらずに毎日安心して暮らせることでしょうか。それとも、犯罪が全く起こらずに新の意味で本当になにも起こらない世界になることなのか。
 
案外、あいまいな感じだと思います。
 
僕の中でもすごく曖昧なのですが、僕自身は、テロや戦争などが起こらなければ平和ではないのかなと思います。
 
 
少し話が変わるのですが、平和というのは、本当に存在するのでしょうか。
先ほどまで日本は平和な国とかという話で、平和というのはあるのかもしれませんが、
世界中での平和について考えてみると、地球全体を見た時には、平和は絶対存在しない気がします。
 
なぜか?一言でいうと、面白くないような世界になってしまうからではないでしょうか。
 
連日のように、ニュースなどで犯罪が起きて人なくなってしまったとか、戦争が起きて大変そうとか思ったりすると思うのですが、結局根本な解決策というのは、絶対にないはずです。人類これまで何千年間と生きてきて、哲学をはじめてとして、様々な学問が生まれてきました。
 
こんなにも、頭がいいのにも関わらず根本問題というのは、何もなくなりません。
確かになくなるのかもしれませんが、会議などになると必ず平和になることと反対の主張をする人や、自分の利益を優先して考える人というのが
後を絶たずにここまで引きずってきています。
 
どちらか言うと、悪の方面の方が7:4くらいの割合でずっと勝ってきているような感じがします。
 
だから、本当の平和は来ないのかと言われると、イエスと言いたいところなのですが、あえて今回は ノーと言っておきます。
 
なぜなら、人間は賢いから。人種差別の問題なども昔は黒人の人たちが差別されていて、太刀打ちできない状況でした。けれど、昔よりは断然いい環境になったところを見るとこれからの人類には希望はあるではないかと思ったりします。歩みは確かに遅いかもしれません。解決に至るまでに何100年とかかるかもしれません。けれど、時間というのを待ち解決していくしかありません。また、世論を変えていくというのも手かもしれません。世界を変えていくのです。一人では決してできないことかもしれませんが、
 
世界の人は平和を求めています。
 
安心を求めています。
 
一人では無いことは確実です。
 
頑張りましょう、と言っても何も始まらないですが、やりましょう。
 
 
これで今日は終わります。読んでくださってありがとうございます。

街の特色

  • こんにちは、炭酸水ケンタです。花粉症の季節で目がかゆくなってきました。
  • けれど、まだ病院に行けずじまいです。まだ、ましやからいいやーとか思っていたら
  • 後から痛い目に合うので、もうすぐ例年通り眼科と耳鼻科に行こうと思っています
  • 今日の雑談はこれくらいにしておいて今日のテーマに入っていきたいと思います
  • 今日のテーマは それぞれの 都道府県の色について  です
  • 日本には皆さんご存知の通り47都道府県があります。そして、それぞれの都道府県には
  • 独自の歴史があり、街並みがあると思います。
  • 一番想像しやすい例でいうと、北海道だと思います。
  • 北海道は、おそらく日本に住んでいる人たちなら持っている共通のイメージは、自然が豊かで綺麗なところ
  • という印象があるのではないでしょうか。
  • 僕自身北海道に行ったことがあるのですが、まさにその通りで自然がとても綺麗で、空気がいいと思いました。
  • けれど、そうでは無いところもありました。それは日本の経済や暮らしを豊かなものにするためといった、
  • 今なくてはならないものなので仕方がありません。
  • けれど、最近になってその県ごとの特色がなくなり、どの都道府県に行っても期待を裏切られるようなことが多いです。
  • 僕が期待しすぎなのかもしれませんが、どこに行っても自分の地元と一緒のような感じがして、何でここに来たんだろう
  • とか、せっかく来たのにもかかわらずすごいお金を無駄遣いしたな、という気分になります。
  • 利便性を追求するあまりにどこもかしこも、ただ一色しかない面白くない街になりつつあると思っています。
  • きっと裏事情としてはいろんなことが絡んでいるのは間違いないのですが、何もすることができないというのが現状なのかな
  • とか思ったりします。
  • けれど、特色というものが生きている街もあると思います。
  • 僕は、関西の方に住んでいてよくたまにいろんなところを散歩したりするのですが、そんな中で特色を発見したところを
  • ここで書いていきたいと思います。
  • 大阪と聞くと皆さんどんなイメージですか?
  • きっと、なんか危なそうとかヒョウ柄の服を着たおばちゃんがいっぱいいるとか、うるさそうとか言ったイメージがあります。
  • 確かに、大阪の中をずっと歩いているとそんな人がいるのは間違いありません。また、イメージからテレビなどでそういった人が
  • 画面上に出ることが多いのでそう思うかもしれません。
  • けれど、探索した経験からいうとそういった人たちはすごくまれでどこに行っても普通の格好をした人たちが歩いているだけのことがほとんど 
  • だと思います。
  • 大阪のイメージは人ばかりに帰結しがちですが、街並みからもよく出ている気がします。
  • 大都市に行くとそれは見えないのですが、いったんはずれるとそれがよく見えます。
  • 僕の思うその街並みというのは、人がとても生きるような作りをしているということです。
  • なので、いわゆる喫茶店というものがよくあったり、商品を売るにしても路地幅の狭いところで売ってその人と
  • コミュニケーションを取りやすいようにしているのかなと思ったりします。そして、そのお店に信頼感を持ち何回でも行きたくなるような
  • 感じがしています。
  • なので、そこで交友関係がとても広がり、困った時の助け合いが日々行われているのではないかと連想するような、雰囲気の町でした。
  • スーパーなどに行ってもコミュニケーションがとらなくなっているこの世の中で、逆にコミュニケーションをとって当たり前のような雰囲気があるというのは
  • 大阪らしくて、普段見れないのでとても新鮮な感じがしました。
  • 普段は僕も含めて都会に行きがちなので、普段見ないところを見てみるとかちょっと都会がつかれたとかいう方に、こういう所に行くことをお勧めします。
  • 改めてここの県ってやっぱりこういう雰囲気であってた、とかなんか思っていた感じとちょっと違うなと思ったりして、新しいことを発見できるかもしれません。
  • その県の特色は 「郊外にあり」 と言う感じですね。
  • ぜひおすすめです。
  • 今日はこの辺で終わります。読んでくださってありがとうございました

本当に情報に氾濫した中で生きているのか

こんにちは、炭酸水ケンタです。今日も家にいます。暇ですね。
なんて悲しい春休みなのでしょうか。明日こそは外にでて思いっきり遊びたいですね。
子供のように。あの頃が懐かしい。
昔は、家に閉じこもるのが嫌いで遊ぶ約束をしなくとも、公園に行けば誰かいる精神でいっていたのに
今となってはそれはあり得ないです。でも、出かけても、いつも一緒の所に行きいつも一緒の事をして帰る、
これも退屈極まりないので、ただ疲れるだけになることが多いです。
だれか遊び方を教えてくれる人はいないのでしょうか。という独り言です
 
そんな独り言はほっておいて、今日のテーマに入っていきたいと思います。
 
今回のテーマは  情報 についてです
 
 
先日情報についてディスカッションをする機会がありまして、いろんな意見が出てきました。
 
このディスカッションの内容というのは、主にあなたの見たその情報が本当に信頼できるのか
 
ということに関するディスカッションです。
 
その中で、出てきた意見としては、結局自分の中で信頼できる情報というのは、実行者した人から聞いたことに限られるのではないかといった意見です。
 
実行者というのも、多種多様にいると思います。例えば、友達が実際にアメリカに行き体験したことを伝えてくれたことが信用できる。
また、旅行についてのブログなどは自分が体験したことをもとに書いているので信用ができる。
 
このような意見です。
 
他にも、ユーチューバーもその部類に入るのではないかなと思います。
 
そんなことを踏まえて今回はブログを書いていきたいと思います。
 
テーマにある情報というタイトルでは範囲が広すぎるので今回は 
 
若者は本当に情報に氾濫した中で生きているのかについてを書いていきたいと思います。
 
 
若者は本当に情報が氾濫した中で生きているのか
 
今日、スマートフォンが誕生し、SNSが流行りになり、いろんな情報が飛び交うようになりました。
 
昔は紙媒体の物が最も信頼できる情報源となっていたものが、今日ほとんどの若者がそれを忘れ去り
 
機械の中に映し出される情報でほとんどすべてを調べるようになりました。
 
その理由としては、機械の媒体が生み出されことによる集中力の低下と共に、いかに短時間でそれを済ませることができるかといった時間の短縮化が
 
できるかだと思います。短縮化というとなんだか聞こえがよく感じられるとおもいますが、裏を返せば考える時間が減ったということです。
 
そして、インターネットを使う人が多くなったのでユーザーの人たちが興味のあることについての情報を読み取りそこから
 
よく調べるものを機械がデータをもとに計算し表示してくれる。
 
なので人によって検索のヒットの仕方が変わってくる。
 
ということはどういうことかというと、情報がその人の中で氾濫しているのではなく逆に狭くなっているのではないかということが言えます。
 
好きなものの情報だけが、最初の方に表示されそれのみを見る。世の中としては情報は氾濫しているように見えますが、一人一人からしてみると
 
全く情報にあふれていないような感じがします。
 
またそこから導かれた情報というものは非常に浅いところの情報なので、それをすべて鵜呑みにしてしまいがちになっています。
 
その傾向が顕著に表れているのが今の若者だと思います。
 
全員が全員そうだとは言いません。その中でも浅いところの情報だけではなくもっと深くまで掘り下げて一つの情報をしっかりと理解するという
 
ことを行っている人は少なからずいるはずです。
 
わかりやすい例を使えば、勉強です。
 
何でもそうなのですが、浅いところを勉強し続けてある程度外枠やその中身についてわかってくるとは思います。
 
けれど、それだけでは全てが見えないはずです。深いところまで勉強し続けたからこそ見えるものがあるものがあると思います。
 
それと一緒で情報も浅いところだけで終わらずに、もっと深くまで掘り下げて掘り下げてみていくと全く違う角度で見えてくるのではないかと思います。
 
そうすると、最初に戻りますが、情報の真偽というのが明確になっていくのではないかと思います。
 
今日はこれにておしまいにしておきます。読んでくださってありがとうございました。

   興味

こんにちは、炭酸水ケンタです。暖かくなってきましたね。これ毎日のように言っている気がしますが、なんせ書くことがないので
お許しを。最近バイトで外に出ることが自分の中でおおくなってきました。
前まではバイトが始まるまではどっかに行って遊んでからバイトに行くスタイルだったんですけど、一日が短く感じて、時間に余裕を持てないので
バイトがある日はバイトに行くだけと決めております。こんなんで大学生活いいのかなと思いつつブログを書いてるのですが、
こういう休みをありだろうと勝手に自己肯定しています。
 
今回の雑談はこれくらいにしておいて今回のテーマに入っていきたいと思います。
 
今回のテーマは 興味   についてです
 
興味と聞くと自分の今好きでやっていることなどが浮かぶと思います。
 
少し惑わせてしまうような質問をします。
 
「あなたは自分の興味のあることにたいして本当に興味がありますか」
 
こんな質問意味わからんとか思う人もいるとかもしれませんが、一回自分のなかで聞いてほしいと思います。
 
これの意図として、その趣味について深く追求してるのかについては聞いていません。
 
その趣味は本当に自分から生まれてきたものなのかということです。
 
つまり、他人に影響されて、興味の自分としての興味をつぶされていないのかということです。
 
テレビなどのメディアの力でもそうなのですが、大衆というのが影響力がとても強いと思います。
 
僕もそうなのですが、人は影響力をすごく受けます。僕も昔興味があったものがあるのですが、時間がたつにつれて
 
それは自分の趣味・興味ではないということで、もう一度興味を探す旅に出ることにしました。
旅といってもどこへいくわけではありませんけどね。
 
結構上からの感じの文章になっていますがお許しください。
 
話に戻ると、すぐには本当の自分の興味なのかというのはわからないかもしれませんが、
 
いろんなことを経験しているうちに、これ自分の興味とは違うな、と気づくと思います。
 
その気づいたときに新たな趣味を持つこと自体も、影響されたものじゃないの?という質問がでてくると
 
思うのですが、確かにそれも一理あります。けれど、それはただ影響されただけではない気がします。
 
経験をするということは、それだけ考えることが多くなる幅が広がるということを意味します。
 
なのでそれは自分で考えた結果自分の興味に変わったという感じのものです。
 
ただ影響を受けただけではありません。
 
興味というのは結局その人自身を表すと思っています。どんな人なのかというのを分かるための一つのヒントになる気がします。
 
そして、興味があるというのは、その人はその分野について意識して考えることが多いということです。
 
勉強をその辺を意識すれば、もっとできるようになったはず、(悲しくなります)自分のせいですけど
 
なので、自分の考える時間をほかのものになれば、ほかのものに興味は移るのでは?と思ったりもします。
 
もし、自分には興味が全くないという方がいたら、自分が一番いつも考えていることは何についてなのかというのを
 
思い浮かべてもらって、それをもとに探してみてください。それは本当の趣味ではないかもしれません。
 
けれど、それが第一歩になるはずです。それでも見つからなければ、人と話してみることもいいきっかけになります。
 
実践あるのみです。
 
 
今日はこの辺で終わります。いつもだんだんと文章が意味わからなくなりますが、練習あるのみですね。
 
よんでくださってありがとうございます。