kentatansansuiのブログ

このブログでは、いろんなことをもっと根本の所からみてもらおうという思いの元書いております。普段あまり哲学的なことを考える機会がすくないのではないでしょうか。哲学というのは日常生活にあふれており普段からなじみのあるものです。一緒に哲学を考えてみませんか。日常の疑問についても書いていきたいと思っています。

成長を感じる

こんにちは、炭酸水ケンタです。最近友達とあまり遊ぶ機会がなくて、また今度会ったりするのですが、多分その時
話せなくなっている気がする。なんでかって?何となくなのですが、いくら仲良くても、最初だけ若干気まずくなります。
そういう経験はありませんか。僕は幾度となくあります。っていうか、自分のペースになるまでずっと続くかな。
向こうのペースに合わなければ、それはまた長いこと続きます。まあこればかりは仕方ないですね。
 
もしこれを治せる方法知っている方是非とも教えてください。
 
 
雑談はこれくらいにしておいて、今日の本題に入ってきましょう。
 
今日のテーマは 
 
成長することとはどういう意味 か   です
 
ここでの成長するというのは、この前久しぶりに身長測ったら伸びてたとか体重増えてたとかそういうのではありません。
 
今回の成長の意味は、前よりも特定のものができるようになったとか、の成長です。
 
皆さんも一度は経験あるのではないでしょうか。
例えば、小さいころからスポーツをやっていて、そういえば前までこれができなかったのに、今意識してみると前より全然できるようになってるとかです
もしくは、ゲームとかをやっていてあの友達と対戦するといつも負けてた。けれど、それから何回も何回もやりこんでやりこんで
ある日突然勝てるようになったとかの経験ありませんか。
その時うれしいとともに、自分って前よりも成長したなと思ったりするはずです。
 
けれど、成長を感じるためにはものすごい時間が必要で、と共に努力もしなければ到底できるようにならないと思います。
 
時々難しすぎて、もうやめたいとおもったこともあるかもしれません。けれど、やめずに頑張った人だけができるようになる。
 
そういう文句よく聞きます。けれど、本当にそうなんでしょうか。ただただ我慢してやり続けているのでしょうか。
 
僕はそんなことないと思います。確かにずっと我慢してずっとやってやっとできるようになったという人もいるでしょう。
 
けれど、ヒントはほかにある気がします。
 
ではそれは何なのか?
 
 
成長を続けるために
 
成長を続けるためのヒントは、確認をいちいちすることです。
 
例えば、ここでは本を読むことにおいての成長について書きます。
なぜなら一番書きやすいからです。
 
本屋さんに行って、この本がよさそうだなと思って買ったとします。それは、たまたま経済についての入門書だったとしましょう。
 
そして、せっかく買ったので家に帰って早く読みたいですよね。なので、読みます。
 
最初はふむふむと調子よく読んでいたのですが、突然 あれっ、全然わからんくなってきた。でもせっかく買ってんから最後まで読もう。
 
で読んでいきます。最終的に全然わからへんかったで終わりました。
 
じゃあそこで諦めるのか?と言われて、じゃあもうちょっと頑張って読んでみよかなとなりますよね。
 
それをする前にほかの本を読んでみてください。一番いいのはそれと類似したものかもしれませんが、とりあえずほかに買った本とかなんでもいいです。
 
これをする意図は何なのかと言いますと、いったん寝かせることです。もしかしたら、気づいていない内に理解してるけれど、読んでいるときはそれができていないだけなのかもしれません。
 
けれど、寝かせているうちにだんだんと整理されて読めるようになっている。プラスほかの本も読んで、また新たな知識がついた状態でもう一回読んでみる。
 
そうするとまた違った角度でその本が読めるかもしれない、そしてそれが成長につながる。こんな感じでだんだんと成長していくのではないでしょうか。
 
成長とは確認の繰り返し、つまりインプットしたことをこまめに確認することで、短期期間で努力を確認することができる。またこれは、長く我慢して続けなくていいと思うので、
 
案外楽にできます。今回は本についての例を出しましたが、本だけにあてはまるものではないと思うので、ほかにも試してみてください。
 
 
今回はこれくらいで終わります。読んでくださってありがとうございます。

大学生になる何故運動しなくなるのか

 
 
 
こんにちは、炭酸水ケンタです。今日外に出たのですが、なかなかあったかくてもう花粉の季節だなと思いました。
鼻炎の僕にはつらい季節なので、病院に行かなくいとひどいことになります。
花粉は来るけど、外に出ないと体がだるくなるのでもうちょっと外出頑張ります。バイトも行きます。
 
雑談が若干少ないですが、ブログ始めてからだんだんと減っています。(頑張って増やそう)
なので早速今日のテーマに入っていきたいと思います。
 
今日のテーマは、なぜ大学生になると部活に入る人や運動をすることに対して抵抗感を持つようになるのかに
ついて書きたいとおもいます。今回も完全に僕の主観から判断して書きます。
 
 
大学生になるとなぜ運動しなくなるのか
 
 
僕自身ずっとではないですが、高校時代まで割と運動はしていました。部活を引退しても、昼休みにみんなでサッカーしたり
授業が終わってからサッカーしたりと運動していました。ちなみに僕はサッカー部ではありません。友達もサッカー部ではない人が多かったので
初心者同士でやっていました。ふざけながらとか、中高生らしくって感じですね。
そんなこんなで運動していることは多かったです。
 
 
けれど大学生になった瞬間、きっぱりと運動するという時間が減っていきました。そして今では、全然しなくなる。
部活を大学生になっても続けている人は大体毎日のように運動すると思うので、そんなこと感じないと思いますが、
部活をやっていないとなかなか運動するチャンスがないように感じます
 
 
何故なのか。
 
 
人によって理由はいろいろあると思いますが、僕の場合はこうです。
大学になってまで部活に入る意味ある?高校までずっと部活ばっかりしてきて、大学生になってまで部活に入る意味あるのかと
思ったりもしてました。僕の場合みんなより勉強の仕方とか進めるスピードとか断然に遅いので絶対無理だと思っていました。
結構陳腐な例だと思いますが、これが僕が部活をしたくない理由の一つです。
 
 
 
けれど、これ以外にもある気がします。普段はあんまり考えないのですが、大学に入ってまで部活に入るってなんだか大学生らしくないとも思っていました。
部活をしているもしくはしていた方ごめんなさい。
でも、こういう考え方している人もいると思います。少数かもしれないですけど。究極論としては、運動するのがめんどくさいになると思いますが。
 
 
 
後、中高生の時はお金があまりないので、やることと言ったらゲームとかもしくは外でスポーツをすることだと思うので、そういった理由で
中高生の内は運動することが多いのかなって思います。
一方大学生、みんな必ずと言っていいほどバイトしますよね、で月末になると給料が入ります。
言いたいことはお金を使った遊びの幅がとても広がるということです。
例えば、ショッピングに行ったり、旅行に行ったり本当に無限大です。いうならば、お金のせいで運動をしなくなったと言っても過言ではない気がします。
それじゃあ、お金を取り上げれば、するのかと言われればどうなんでしょうか。
もしかしたら、することの幅が狭くなるので、勉強をする、もしくは中高生とやることが変わらないといったことも起こるかもしれません。
今日、運動する場所がだいぶ少なくなってきたので、それも無理かもしれませんが。
 
 
もしあなたなら何をしますか?もしお金がなければ、どんなことをして毎日を過ごしますか?どんなことをして友達と遊びますか?
 
 
これで今日は終わりたいと思います。読んでくださってありがとうございます。

自分の感情について 言語化

こんにちは、炭酸水ケンタです。最近外に出ないせいかあまり雑談がなくなってきました。けれど今日も雑談から入ります。今日は面白いものを見つけました。ステンシルシートです。皆さんはもう知っているかもしれませんが、僕は全く知らなかったです。なんてすごいんだと、本当に驚きました。シール一枚であんなにいろんなものに装飾のようなものを施すことができ、かつおしゃれチックになる
(ファンシーと表現した方がいいのでしょうか)。よくよく思い出してみると、いろんなお店にああいう感じのアート?があったなと思いました。(あれってアートですか?)すごくシンプルですね。簡単に誰でもできる。
切る作業面倒だな、と思いつつ見ていたのですが、着る道具まであるなんて、素敵かつすぐにできるしかもおしゃれ。
2S ・1O 二つのエスと一つのオーです。もう一つのエスが見つけれませんでした。すいません。まあこんな感じにして、今日のお題に入っていきましょう。
 
 
今日は久しぶりに、、ていうか初めてなのかな自分のことについて書きます。
 
 
自分のことについて
春休みに入り、今までは学校遠いし嫌やなとか授業暇やなとか思いながら毎日を過ごすことが多かったです。
まあ大学生ならだれでも思うことなのかもしれません。
けれど、僕は大学が好きです。先生はとてもやさしいし(たまに話しにくい人もいるけど)、後友達と話すことができます。
僕にとって話す時間というのは、本当に大切な時間です。僕の場合なかなか自分のペースに乗らないと全然話せないことも多々あります。
今日調子がいいなと思ったら話が止まりません。若干ウザがられますけどね。まあこれが充実しているのでいいです。
けれど、休みに入った途端、それがピタッと終わりを告げます。土日の休みとかゴールデンウイークならまだしも、夏休みや春休みなどの長い休みに
入ったら本当に長い間なくなります。
 
 
中学や高校では、こういうことは全く平気でした。だって、学校の友達とか嫌でも部活とか塾とかで会います。地元にいてれば何かしら会います。
別にどこか遠くに行く人なんてまれだと思うので。お金かせいでないわけですし。
 
 
けれど、大学に入れば、それぞれが一人一人好きなことをします。例えば、バイトだったり、遊んだり、まあいろいろです。
ということは、自由です、就活などが始まれば、忙しくなるかもしれませんが。僕は就活に対しては断固反対派です。
なので、いつものメンバーが集まりいつもの場所で話す時間が減るわけです。
言いたいと事は、なんだか寂しい気持ちになりませんか。まだ卒業してないやんとか、いろいろ意見はあるかもしれませんが、
なんだかよくわからない言葉にできない感情になります。
卒業式だとか僕は平気なのですが、はっとして何も考えなくなった瞬間、頭にいろんなことがめぐります。
ドラマのなどの回想シーンより何個も一度に目の前に来ます。この瞬間はいったい何なんでしょうか。
どれだけ忙しくても、はっとした瞬間悲しい気持ちになる。あの時は嫌なことあったなとか、楽しかったなとかも全部合わせて(もちろん昨日のこととかも)
おもいだして、涙が落ちて来るような感情が起こってきます。
だいたいはまた違うことをしたりだとか、外に行って歩いている瞬間に消えますけどね。
 
 
 
頭って不思議ですよね、忙しいの時にはイライラしたり、ホッとすると悲しくなったり物足りない感情がする。
自分の脳内を覗き見たい感じがします。別に検査を受けたいとかじゃないですけど、、、怖いです。
 
 
なんか書いていきましたが、自分の事っていうか今の感情について言語化して書いてみました。
 
 
こんなことを書いてるとまたおもいだしてきそうです。
 
 
時間は大事ですね。感情が僕にはあってよかったなとも思ったりします。自分に言語があってよかったです。思ったことを表現できる幸せがあります。
 
 
もしなんかもやもやした気持ちがあればブログに表現してみるのはどうでしょうか。きっと新たな出会いがあるかもしれません。
また自分の本当の想いがわかるかもしれません。だまされたと思ってやってみてください。きっとわかるようになります。
表現するって大事です。
 
 
今日はこの辺で終わります。読んでくださってありがとうございます。
 
 
次は、感情と音楽とか  また本の紹介とかもしていきたい思います。


GReeeeN - キセキ

 

懐かしい曲を貼っておきます。映画ちなみに面白かったです。ぜひ見てください

運命は本当に存在するのか

こんにちは
 
炭酸水ケンタです。昨日まで若干調子がよくなくて、どうやったら治るものなのか考えながらも外に出ていました。
最近早く寝て遅く起きるというのを実践したらいいんじゃないかなとか思ったりしています。
例えば、10時に寝て5時に起きるとか。そっからブログの更新をしたりその日その日の課題をしたりだとかをしだす。
結構いいかもです。
最近何となくストレスたまり気味なので、身体を動かしたいですね。あまりストレスというのがどういう感じなのかわかりませんが。
何となくたまってる感じがします。
 
 
雑談はこれくらいにしておいて今日のテーマに入っていきたいと思います。
 
 
今日のテーマは  運命   ついてです。
 
 
読者の皆様も一度は運命について考えたことがあるのではないでしょうか。
恋愛において述べるならば、自分にとっての運命の人はこの人だとか、この人なしでは生きていけないとか言った感じです。
その他にも、ここでこれを買えたのは運命だったとか。(ちょっと違う感じもしますがそれは置いといて)
 
 
 
けれど、よくよく考えてみると、これやっぱり違うんじゃないかとか、時間がたつにつれて何となく自分の思っていた感じと違うなとか思ったりします。
なので、運命というのは所詮感情論では、とか一時的なものなので信用ならないなとか思ったりするかもしれません。(これは自分だけなのかな)
 
 
また、たまに運命なんて信じないぞ。これは僕が生まれた時から決まっていた未来なんだとか、予定説的な考え方で運命論をそもそも否定してしまうという考え方。
 
 
いろんな考え方があると思いますが、日本における運命という概念はいったいどこから来たのでしょうか?
僕自身も全く知らないのですが、自分なりに仮説を立てたいと思います。
 
運命とは何処ぞから来たのか
 
運命はどこから来たのでしょうか。(日本においては)
僕自身感じるのは、日本における運命の考え方は、日本の伝統的な考え方からきているのかもしれないといった仮説です。
 
 
それのもとになってるのではないかと思った考え方は、一期一会です。
 
 
 
一期一会というのは、その一回一回の出会いを大切にしようという考え方です。もしかすると、この一回の出会いはもうないかもしれないといった前提の上にできた考え方ですね。
けれど、決してもうこの人とは会いたくないとか、絶対一回だけしか会えへんからなとかではありません。
 
 
個々人と気持ちとしてはあるかもしれませんが、言葉の意味はそんな意味ではないです。もっと素敵な言葉です。
もう日本中で有名な明石家さんまさんもそういった考えをしてりうのではないかと思っています。ちょっと意味は違ってきますが、さんまさんはプライベートであっても決してサインを
断らないというのを見たことがあります。それというのは、そのサインがほしい人の中には、病気で苦しんでいる子がいたりするかもしれないからです。自分のサインをもらうことによって
少しでも元気になってもらえるなら断らないということです。本当に素敵な方だと思います。
そして彼の考え方も僕の感じでは、一期一会的な感覚に少し近いところがあるのではないかなというところがあります。
 
 
 
話を戻すと、日本にとって運命の考え方のもとになっているのは、一期一会ではないかという僕の仮説ということです。
 
 
次に運命とは本当に存在するのかといったことを述べていきたいと思います。僕の考えを中心に書いていきたいと思います。
 
 
 
運命とは本当に存在するのか
 
僕がもし誰かに本当に運命というのが存在するのかと聞かれたら、僕はノーと答えます。上に書いた通り運命というのは
一時の感情論に過ぎないのではと思っているからです。
人の感情というのは本当に左右されやすいです。もしそれが操作された感情だったとしてもそれを運命と感じますか?
もしそれを後で知ってしまったら後でとんでもないショックを受けますよね。
僕が運命を信じないのは後でショックを受けたくないという心理的なものも確かにあります。僕自身そんなに精神的に強くない人なので。(最近涙腺が弱いです。関係ないですけど)
 
 
けれど、もし僕が運命の物や人にあったとしても、違う考え方をします。というか、まず疑いから入ります。(だからひねくれものとか言われる)
その時点でまず運命という考え方が崩れますけどね。
 
 
僕は運命というかそれ自身を小さな幸せの瞬間ととらえます。それ=運命じゃない?と思われるかもしれませんが
僕は頑固なので絶対違うと答えます。そもそも、自分の考え方的には一緒の領域に幸せと運命は存在しません。
 
 
どんどん話が見えなくなっていきますが、
幸せとは、自分の中では、たまるものと思っています。一方で運命とはその場限りたまらないのではと思っています。
運命とはそもそもたまった時点で運命じゃない気がしています。
その都度その都度、運命は新しくなっていきます。けれど、幸せは新しくなりません。なのでその辺がちがうのでは、と思ったりします。
 
 
 
運命についての考え方は本当に人によって考え方は様々で、答えはないじゃないかと思います。確かに、考え方が似ている人は十二分にいることは考えられますが、一緒ではないはずです。
 
 
最後に、もし運命という考え方について考えたことが無い方がいれば、自分の経験や思っていることがなんでも照らし合わせてみて、考えてみてください。
きっと自分の核の考え方が見えると思います。もしわからないならば、だれかと話し合ってみてください。きっと面白い考えが生まれるはずです。
 
 
 
もしもうすでに持っている方がいれば、教えてください。反対意見などお待ちしております。反対意見を言われれば傷つくのはみんな一緒だと思います。けれど、言われることによって自分の
考え方がより洗礼されていくので、いいチャンスと僕は考えています。
 
 
 
これにて今日は終わりにします。読んでくださってありがとうございます。
 
 

 参考までに幸せとはの記事も貼っておきます。そして、考えるのに役に立つのではないかなと思った本と共に。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

kentatansansui.hatenadiary.com

 

環境に依存してしまうことはいいことか

 
 
こんにちは、暇人の炭酸水ケンタです。本当に春休みは暇です。今日も学校に行くために外に出たのですが、それ以外に行くことがありません。
でも最近身体をなまらせないために、バランスボールに乗って筋トレを始めました。とゆってもそんなに長い時間をかけてやっているわけではありません。
だいぶと怠けております。この生活習慣を治すべく、これからは外に出るように頑張ります。(一番外に出ないパターンのやつ)
 
 
雑談はこれくらいにしておいて、今回のテーマに入っていきたいと思います。
 
 
今回のテーマは、
 
 
人間は環境に依存してしまうのか
 
 
これについて僕の意見と体験をもとに書いていきたいと思います。
 
まず読者の皆さん、人間は環境に依存してしますと思いますか? 答えは人によってさまざまにあると思います。なので、一概に絶対にないだろうとかいや100パーセント依存するとも
いえないと思います。また、その人自身の性格にもよってくると思います。
 
 
ちなみに僕の意見としては、人間は環境に依存してしまうと思っています。今回のテーマは、依存という言葉と使っているが決してドラッグや何かにおける中毒についてではありません。
 
今回焦点を当てたいのは、人間の行動についてなので、その辺は誤解なきようよろしくお願いします。
 
 
話を戻すと、僕が人間が依存してしまうと思った理由はやっぱり孤独を避けるためにはしてしまうのではないかと思います。
僕は高校時代、そんなに進学校に行っていなかったために、最後まで一人で学校で勉強してることが多くあまり人と話すことがありませんでした。
けれど、僕の場合は、塾に通っていたのでそっちの方で地元の友達と一緒に喋ったり、ご飯を食べたりしていたおかげなのか、孤独感をあまり味あうことはありませんでした。
けれど、もし塾に行っていなかったら孤独感を味あっていたのかもしれません。わからないですけど。僕変わっていますから。
けれど、僕も人間なので、きっと感じていたに違いないと思います。
 
こんな感じで人々はどこかに自分が所属したグループがあり、そして、心地いいかそうではないのかを置いといてどこかにきっと安心できるような場所を作っているのではないかと思います。
 
けれど環境に依存するというのはいい面と悪い面があると思っています。
 
まず
 
いい面から
 
 
環境に依存してしまういい面 
環境に依存していい面とは。
それぞれの環境、つまり人のコミュニティーにはそれぞれ色があるのではないかと思います。例えば、ボランティアのグループや会社としてのグループ、また小さなグループで見るといつも遊びに行くグループなどです。それぞれのグループには色があり、こっちのグループではこんなことを話したりすることが多いな、とかこういう行動をすることが多いなとかです。グループによっては嗜好があると思うので、それぞれ傾向が出てくるのではないかと思います。もちろん、変えているグループもあると思いますが。
なのでそのグループにいると自分がそのグループにおける考え方に染まってしまいます。これは、その考え方に強くなるということを意味すると思います。また、自分が前に違うグループに入っていて、違うところに入りそのグループの考え方が新鮮で依存してしまうこともあります。けれど、それは自分にとって新鮮な生き方であるので、きっと自分にとってプラスに動くように思います。
 
 
逆に今度は
 
悪い面において考えてみたいと思います。
 
環境に依存してしまう悪い面
 
次に環境に依存してしまう悪い面です。
環境に依存してしまうと自分のそのコミュニティーの考え方に依存してしまい、悪い言い方をすれば依存してしまいます。なので他の所が見えないことがあり、自分では気づかないかもしれませんが、世界が狭まっている可能性があります。たまに、退屈だなと感じてしまう人もいるかもしれません。
 
マイナス面が思いつかなかったので、少し短くなりましたがこういうプラス面とマイナス面があるように感じます。
 
なので、心地いいグループにいるのは確かに楽しいかもしれませんが、たまには違うコミュニティーに属してみるのはどうでしょうか?もしかすると新しいことが得られるかもしれません。
もしかしたらそっちの方がもっとたのしいかもしれません。
 
こんな感じで今日は終わります。読んでくださってありがとうございました

幸せとは

こんにちは、炭酸水ケンタです。三日連続の投稿になります。僕が三日連続の投稿って今日で飽きてしまいそうで怖いです。まあ最近はあまり外に出る用事がないので、ブログ書くか家で映画見たりとか結構インドアになってしまっています。小学校のころは毎日ドッチボールして鬼ごっこしてたのに。大学生になって身体がなまってとてもじゃないけど鬼ごっこはできません。この歳でしていたら恥ずかしいか。
 
雑談はこの辺にしておいて、今日のテーマに移りましょう。今日のテーマは
 
じゃじゃん
 
幸せとは何か
 
です。
 
自分にとって幸せとは何かについて一度は考えたことがあるのではないでしょうか。僕は大学生とだいぶ年をとってしまったので(鬼ごっこもできなくなったくらい)、何度か考えたことがあります。
 
 
まず一般に僕が思っている幸せとはについて話した後に、僕にとっての幸せとは何かについて書きたいと思います。
 
 
まず僕が思う一般的な幸せとは
 
 
一般的な幸せ
僕が思う一般的な幸せというのは、まず一番に思うのが家庭を持ち子供を持ち幸せに暮らすことです。僕は実体験としてないので、各家庭の実態というものがわからないのですが、
ちょっとした喧嘩などが夫婦でありながらも子供と一緒に成長していくというのが、そうじゃないのかなと思います。今回は日本語で書いているので、日本だけに絞らせてもらうのですが、
今日確かに犯罪が多くなり、子供にとって少し危ない環境にあるのかもしれませんが、それでも平和に子供たちが夕方になるまで公園、もしくは友達の家で遊んで帰ってくる。そして、子供が帰ってきて一緒にご飯を食べながら、今日あったことを話す。なんだか理想な感じで想像するだけで平和すぎて泣けてきます。最近涙もろいので。そして、明日もそんな平和で安全な暮らしが来ますようにと心の中で願いながら今日を終える。そういう何気ないいつもと変わらない一日を送るというのが幸せなのではないのでしょうか。
 
また家庭の幸せだけではなく、美味しいものを食べているときのあの一瞬の幸せ。仕事を終えて一杯目のビールを飲んだ瞬間など一瞬の幸せが日々にあふれているというのもあるのではないでしょうか。
 
あえて幸せを二つに分類するならば、上に書いた例のように
 
 
毎日の幸せ(長いスパンで見た時の幸せ)
 
 
一瞬の間の幸せ(これはいわゆる満足に当たるのかもしれませんが満足も幸せと今回は定義します)
 
 
の二つに分類されるのではないかと思います。
人類が生まれ狩りをし生活をし始めた時から、幸せというものはあると僕は考えています。
確かに毎日の忙しい日々の中でなかなか言語化など、やっぱりしんどいことや自分が長くやっていることの方が頭に残りやすいと思うのですが、
毎日どこかに絶対に幸せというものがあるのではないでしょうか。
もし自分にはないと感じるのならば、幸せを作ってみてはどうでしょうか。
例えば毎日電車に乗るならば、足腰の悪い人に席を譲ってあげることや、道に迷っている観光客の方々に道を教えてあげることです。
僕もイライラしているときは、傲慢な態度をとってしまいがちですが、そこを一瞬抑えていいことをしてみる。そうすれば、何だが幸せな気持ちになります。
他にも子供が好きな人であれば、赤ちゃんの顔を何気なく見てみる。笑った顔を見るのは本当に癒されます。他にもYouTubeやその他音楽機器で自分の好きな音楽を聴いてみるとかです。
自分の今の気分の音楽を聴いてみることをお勧めします。音楽はいつも私たちの味方です。
 
 
少し例などが多く長くなってしまいましたが、こんな感じが一般的な幸せというものではないでしょうか。
 
 
次に僕にとっての幸せとはなんなのか。そんなの別に読みたくないよーとか思うかもしれませんが、ちょっとだけお付き合いください。何も出てこないですけど。
 
 
僕にとっての幸せとは
 
僕にとっての幸せとは。僕にとっての幸せは、いつもころころ変わります。小学校の時遊戯王というカードゲームをやっていたのですが、その時みんなで遊ぶことやカードのパックを買うことが
なんとも言えない幸せでした。あと友達とデッキを作って闘うのですが、その時自分で一から勝つためのデッキを作るのが僕にとって毎日の幸せでした。
また中学や高校の時は、塾に行くことが毎日の幸せでした。僕は勉強はあまりできないですが、塾の先生と話すことや塾の友達と受験の話をすること何気ない話をすることが本当に幸せでした。
今思うと自分の精神のよりどころとなっていた気がします。(日本語あってるかな?)なので、まとめると小学生の時はどちらかというと物に対して幸せを求めていたので、いわゆる一瞬の幸せですね。そして、中高生になると僕は場所に幸せを求めていました。つまり、自分がそのある一つの環境に身を置くことが幸せでした。それは、自分の居心地のいい所にたまたまいただけなんですけどね。
 
そして、大学生となって僕の幸せというのは、今感じるのは一瞬の幸せと環境の幸せどちらも合わさることが僕の幸せとなっています。僕も大学生になり少しは賢くなりました。嘘つけとか損南道でもいいから早くという声が聞こえてきそうですけど、お許しを。といってもまだまだですけどね。話を戻すと、僕の言いたかったのは、大学生になり自分でバイトをしお金を稼ぎそのお金で、例えば僕の場合は本を買ったりどこかに行くためのお金に使ったりとできるようになったことが本当にうれしいです。とともに、僕はじっとしているのが、どちらかといえば嫌いなので、外に出てイベントに参加するということを頻繁にしています。(結構行ってるつもり)そして、そこで新しい人と出会い、今まで自分が考えたことがないことや今の自分には腑に落ちないことなどいろんな話を聞くことができます。それが今の僕にとっての幸せです。確かに遊ぶことも楽しいのですが、最近何して遊んでいいのかわからないので、遊ぶこと自体に幸せをあまり感じることがなくなってきました。けれど、これからは遊ぶことにも少し工夫をしてもっと楽しくなるようなことをかんがえてみたいと思います。
幸せは受け身では最近は来なくなってきたので、自分で作りだしいかに満足できる一日にするのかということを積極的に考えていきたいと思います。そのためには、やっぱり努力も大事だと思うのでそれに対して焦点を当てながら生きていきたいと思います
 
こんな感じが僕の幸せに対する考えです。少し話はずれたりしましたが、僕の思っていることを書きました。
 
読んでいただいてありがとうございました。気まぐれでテーマが突然変わったりするのはご了承ください。これにて今日は終わりです。
 
 


高橋優「福笑い」MV(2015ver.)

 

最後にこの曲を貼っておきます。僕が友達に教えてもらった曲です。この歌個人的にすごく気に入ってるので。

大学は四年間であるべきなのかそれとも一年で終わるべきなのか

こんにちは、炭酸水ケンタです。今回は連続の投稿になります。
昨日もブログを書いていたのですが、下書きをしてから投稿しようと思い下書きをしていました。
それで、終わったのでコピーペーストやと思ってドラッグして全文を選択しました。
けれど、そこで悲劇が起きました。なんと間違って消してしまいました。なぜかというと、CtrlキーとCを押すはずがVを押してしまったので
消えてしまいました。本当にあの時の悲しい気持ちと、イライラする気持ちが半端じゃないです。レポートとか書いてて消えたら発狂ものですよね。
そんな感じです。
という雑談はこのくらいにしておいて、今回のテーマに入りましょう。今回のテーマは、大学は四年にすべきなのかそれとも一年で終わるべきなのかという
テーマについて書いていきます。
 
 
テーマ;大学は四年であるべきかそれとも一年で終わるべきか
 
 
 
僕自身ちなみに四年あるべきだと思う派です。僕が思うメリット・デメリットを書いていきたいと思います。
 
 
四年であるメリット
 
 
今もそうなのですが、大学はずっと四年間続けていくというのが普通でした。(短期大学は2年間ですが)
四年間というのは、学生にとっては長かったり・短かったりすると思います。ちなみに僕の周りは楽しいという声の方が多い気がします。みんな割と遊んだり、自分の好きなことをしてエンジョイしている気がします。けれど、それ以上にもっと意味があるような感じがします。
 
  もし一年間であれば、論理的思考能力が十分に身につかない
 
 
最近になって僕がよく聞くのは、一年間で大学生レベルくらいの勉強はすべて終わらせることができるという主張です。僕自身まだ大学生で、本当に一年間で終われるのかはわかりません。
けれど、一年という数字少し長く感じられるかもしれませんが案外あっという間です。もし一年間で、授業をすべて終わらせることができるとして、本当にそれを習得できるのかといわれると
ほとんどの人が無理なように思います。できるぜっていう人もいるとは思いますが。確かに覚えるという作業はできるかもしれません。けれど、一年間では、十分な論理的思考がつかないような気がします。そして、それを全部説明できるのかといわれるとかなり厳しいような感じがします。僕が思う論理的思考を身に着ける方法は、大学で自分の専攻の勉強をするだけではなく、自学自習として自分でいろんな分野の本を読んでみたり、人から話を聞いたりして徐々についていくのではないかなと思います。他にも、バイトしたりインターンしたり。そういう勉強プラス経験が十分にできる期間が大学生活の四年間であり、四年間という数字な感じがします。そして、旅行をして世界中を回ったりできるのも大学四年間な気がします。そして、友達や先輩と一晩中何かについて語ってみたりと。思考する時間が十二分にある気がします。
 
 
 
すいません、なんだか大学生の分際でと思うかもしれませんが、これが僕の思う意見です。もし、私はこう考えているよとかあったら教えてください。僕の凝り固まった考え方を直したいです。
 
 
 
逆に今度は四年間でのデメリットについて考えていきたいと思います。
 
 
四年間のデメリット
 
 
僕が考える四年間であるためのデメリットは、なんといっても20代でできる経験が不足するという考えです。四年間の間で社会に出て、仕事などをすれば大学で四年間勉強してるよりかは
違った経験ができると思います。また大学の四年間の授業の時間数と働いている時間数とを比べると圧倒的に働いている時間の方が多くその分を、自分の経験する場所などに充てることができます。また自分で企業を実際にして、お金の管理を実際にしたりその他重要な作業ができるのではないかと思います。(僕はやっていないのであくまで自分の想像で書いています)
また、大学で受ける授業が実際の業務に役に立たないので、授業を受けるより実践を多く積んで、経験値を得ていくことで、知識もおのずとついてくるといった考えもあります。
 
 
 
こんな感じで僕が思う、もしくは聞いた話の中でこんな考えがあるというのを今回書いてみました。少し陳腐な考えプラス僕の文章力のなさが浮き出るようで、また言葉足らずな部分もまだ多くあると思いますが、こんな風にぼくは考えています。もし上にも書いたのですが、こんな意見持っているよという方がいたら教えてください。
 
 
では今回はこれで終わります。読んでくださってありがとうございました。